ダライ・ラマ1世(ゲンドゥン・トゥプ)
ダライ・ラマ1世であるゲンドゥン・トゥプは、1391年、中央チベットのツァン地方、サキャ近くで、遊牧民であるゴンポ・ドルジェとジョモ・ナムカ・キの子ペマ・ドルジェとして生まれた。
ギャトン・ツェンダ・パラからチベット語の読み書きの基礎教育を受けた後、14歳のときに、ナルタン僧院の僧院長だったケンチェン・トゥプ・シェーラプより沙弥戒を授かり、ゲンドゥン・トゥプの僧名を得た。その後、1411年にトゥプ・シェーラプのもとで具足戒を授かった。
ゲンドゥン・トゥプは、ゲルク派の創始者である偉大なるツォンカパ大師の名声を聞き及んでおり、1416年に弟子となった。その忠誠心と熱心な信仰により、まもなく一番弟子となったゲンドゥンに、ツォンカパ大師は新しい僧衣を与え、チベット全土に仏教を布教するよう命じた。1447年、ゲンドゥン・トゥプは、ゲルク派で最も大きな僧院の一つタシルンポ僧院をシガツェに建立した。
初代ダライ・ラマ、ゲンドゥン・トゥプは、極めて学識豊かな人物であり、研究と実践の双方に優れていることで有名だった。彼は、仏陀の教えについての自らの識見と仏教哲学を8巻の著作として残している。1474年に、タシルンポ僧院にて瞑想中に84歳で没した。
ダライ・ラマ2世(ゲンドゥン・ギャツォ)
ダライ・ラマ2世であるゲンドゥン・ギャツォは1475年、中央チベットのツァン地方シガツェに近いタナク・セクメという場所に、農民であるクンガ・ギャツォとマチク・クンガ・ペモの子として生まれた。
父親は、ニンマ派に属する高名な密教の行者でもあった。幼いゲンドゥン・ギャツォは、言葉を発するようになると、自分はペマ・ドルジェ(ダライ・ラマ1世の幼名)でありタシルンポ僧院で生活したい、と告げたという。また、母親が彼を身ごもったとき、父親の夢の中に白衣を着た者が現れ、生まれてくる息子をゲンドゥン・トゥプと名付けるよう命じるとともに、その子には、過去生を思い出す能力があることを告げた。だが、父親は彼をサンギェー・ペルと名づけた。
父親から初等教育を受けた後、11歳のとき、ダライ・ラマ1世ゲンドゥン・トゥプの転生者と認定され、タシルンポ僧院でダライ・ラマ2世となった。1486年、彼は、パンチェン・ルンリク・ギャツォより沙弥戒を授かり、僧名のゲンドゥン・ギャツォを名付けたチュージェ・チューキ・ギェルツェンのもとで完全な比丘の戒律を授かった。タシルンポ僧院とデプン僧院で学問を修めた。
1517年、ゲンドゥン・ギャツォはデプン僧院の僧院長となり、翌年、モンラム・チェンモの大祈祷祭を復興し、ゲルク派の三大僧院であるセラ、デプンおよびガンデンの僧侶を取りまとめて宗教儀式を執り行った。1525年、セラ僧院の僧院長となる。1542年に67歳で没。
ダライ・ラマ3世(ソナム・ギャツォ)
ダライ・ラマ3世のソナム・ギャツォは、1543年、ラサ近郊のトゥールンの裕福な家に、ナムギャル・タクパとペルゾム・ブティの子として生まれた。夫婦にはそれまでに多くの子が生まれていたが、全員が早世していた。生まれてきた子の夭逝を防ぐため、ソナム・ギャツォは白山羊の乳で育てられ、ラヌ・シチュー・ペルサン(山羊の乳によって救われた豊かな者)と名づけられた。
1546年、チベットの支配者であったソナム・タクパ・ギェルツェンと、パンチェン・ソナム・タクパが、3歳だったラヌをゲンドゥン・ギャツォの生まれ変わりと認定した。彼は、大行列を随行してデプン僧院に移り、剃髪の儀を経て俗世を捨てた。7歳でソナム・タクパより沙弥戒を受け、ソナム・ギャツォの僧名を得た。22歳のとき、ゲレク・パルサンより具足戒を授かった。
1552年、ソナム・ギャツォはデプン僧院の僧院長となり、1558年にはセラ僧院の僧院長となった。
1574年、自らの宗教儀式の補佐を得るためにペンデ・リクシェーリン僧院を建立。これがナムギェル僧院であり、今日までダライ・ラマ法王直属の僧院として機能している。ソナム・ギャツォの時代に、モンゴルの王アルタン・ハーンが、「智慧の大海」を意味する「ダライ・ラマ」の称号を法王に贈り、法王は返礼としてアルタン・ハーンに「宗教の王」を意味する「ブラフマン(梵天)」の称号を贈った。ダライ・ラマ3世は、また、ツォンカパ大師生誕の地にクンブム僧院を建立し、カムにリタン僧院を建立した。1588年、モンゴルで布教中に没した。
ダライ・ラマ4世(ユンテン・ギャツォ)
ダライ・ラマ4世ユンテン・ギャツォは1589年、モンゴルで、アルタン・ハーンの孫でチュークル部族の族長であったツルティム・チュージェとその二番目の妻パケン・ヌラの間に生まれた。
神託の予言と、誕生時の吉兆の双方から、ガンデン僧院の僧院長は彼をダライ・ラマ3世の転生者として認定し、ユンテン・ギャツォの僧名を与えた。しかし、彼の両親は、息子がもう少し成長するまで手放すことを拒んだため、彼はモンゴルに留まり、モンゴルのチベット人僧侶から基礎的な宗教教育を受けた。
1601年、12歳のときに、ユンテン・ギャツォは父親の随行のもとチベットに移り、その時のガンデン僧院の僧院長サンギェー・リンチェンより沙弥戒を授かった。1614年、25歳のとき、パンチェン・ラマ4世のロサン・チューギェルから具足戒を授かった。後に、デプン僧院の僧院長、セラ僧院の僧院長を歴任する。1617年、27歳のとき、デプン僧院にて没した。
ダライ・ラマ5世(ガワン・ロブサン・ギャツォ)
ダライ・ラマ5世、ンガワン・ロブサン・ギャツォは、1617年、ラサ南郊のチョンギェーに、ドゥンドゥル・ラプテンとクンガ・ランジーの子として生まれた。ダライ・ラマ5世の侍従長であったソナム・チュンペーは、チョンギェーに住む男の子の非凡な能力の噂を聞いてその子を訪ね、ダライ・ラマ4世の所持品を見せた。男の子は即座に、それらは自分のものだと言った。政治的状況が不安定だったため、ソナム・チュンペーはダライ・ラマ5世の発見を当初、公にしなかった。政治的状況の安定を待って、ダライ・ラマ5世は、デプン僧院に迎えられ、パンチェン・ラマ4世ロプサン・チューギェルの下で沙弥戒を受け、ンガワン・ロブサン・ギャツォの僧名を授かった。
ダライ・ラマ5世が認定された頃、チベットの政治状況は不安定だった。しかし、モンゴル・ホショート部のグシ・ハーンが安定をもたらし、1642年にシガツェの宮殿でダライ・ラマは正式にチベットの聖俗両界の主権者となった。1645年、ダライ・ラマ5世はガンデン・ポタン(チベット政府)の高官たちと討議の末、チベットの第33代王ソンツェンガムポが赤い要塞を築いた丘にポタラ宮殿の建設を決めた。同年に着工し、43年の歳月を経て完成する。 1649年、清の順治帝がダライ・ラマ法王を北京に招聘した。ダライ・ラマ法王は清領内の寧夏で大臣と将軍、そして3千人の騎兵隊に迎えられ、彼らを随行して北京まで赴いた。順治帝もダライ・ラマ法王を迎えるために北京を離れ、コトルという場所まで赴いた。北京では、皇帝がダライ・ラマ法王のため特別に建立させた黄寺に滞在した。皇帝とダライ・ラマ法王は公式会見において、互いに称号を与え合った。1653年、ダライ・ラマ法王は、チベットに帰国した。
グシ・ハーンとデシ(摂政)ソナム・チュンペーは1655年に相次いで死去し、ダライ・ラマ法王は、グシ・ハーンの息子であるテンジン・ドルジェを新たなモンゴルの王として任命した。摂政の地位はドロン・メーパ・ティンレー・ギャツォが引き継いだ。清では、1662年に順治帝が死去し、息子である康熙帝が即位した。同年、パンチェン・ラマ4世が91歳で死去した。1665年、タシルンポ僧院の要請により、ダライ・ラマ法王はツァン地方の男児を故パンチェン・ラマ4世の転生として認め、その子をロブサン・イェシェーと命名した。
ダライ・ラマ5世は、非常に学識豊かで、サンスクリット語に良く通じていた。詩歌に関するものを含む多くの著作を残した。在家と僧侶それぞれの政府役人を養成するための教育機関を設立し、モンゴル語、サンスクリット語、暦学、詩歌および行政学が学べるようにした。彼は口数の少ない人物だったが、彼が発した数少ない言葉は確信に満ちており、チベットの国境を越えて周辺の政治的支配者たちに影響を与えた。1682年、ポタラ宮の完成を見ずに65歳で亡くなったが、残された宮殿の建設の責任は、新たな摂政であるサンギェー・ギャツォに委ね、彼に自らの死を当面、秘匿するよう命じた。
ダライ・ラマ6世(ツァンヤン・ギャツォ)
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォは1682年、モン・タワン地方(現在のインドのアルナチャル・プラデーシュ州)に、タシ・テンジンとツェワン・ラモの子として生まれた。当時の摂政サンギェー・ギャツォは、ダライ・ラマ5世の遺言を受け、ポタラ宮の完成を待って、その死を15年にわたり秘匿した。国民は、偉大なるダライ・ラマ5世は、長い隠遁に入っていると信じていた。重要な儀式では、ダライ・ラマ法王の典礼用のガウンが玉座に掛けられた。モンゴルの王侯たちがダライ・ラマ法王への謁見を希望したときは、ダライ・ラマ5世に似たナムギェル僧院の老僧が影武者として玉座に座った。彼はダライ・ラマ5世の禿頭と大きな丸い目には似ていないことをごまかすため、帽子をかぶり目の周囲にアイシャドウを塗った。摂政はしばらくこのような粉飾を続けていたが、ある日、モン地方に特異な能力を持つ男児の存在を聞いた。早速、1688年に使者が送られ、男児は秘密裏にラサ近郊のナンカルツェに連れてこられ、摂政に任命された教師によって1697年まで教育が施された。1697年、摂政は、信を置く侍従シャプドゥン・ンガワン・ションヌを清に派遣し、康熙帝にダライ・ラマ5世の死とダライ・ラマ6世の発見を告げた。その後、摂政は、チベット国民にもそのことを告げたところ、国民は歓喜を持って知らせを受け止め、日没を嘆く代わりに日昇を喜び、かつ、摂政に感謝した。摂政は、チベットでダライ・ラマ法王に次ぐ宗教指導者であるパンチェン・ラマ5世のロブサン・イェシェーをナンカルツェに呼んだ。ダライ・ラマ6世と認定された男児は彼より沙弥戒を受け、ツァンヤン・ギャツォという僧名を授かった。1697年、16歳のツァンヤンは、セラ、ガンデン、デプンの三大僧院を代表するチベット政府高官、モンゴルの王族たち、康熙帝の使者、およびラサの民衆の見守る中、ダライ・ラマ6世として即位した。
1701年、摂政のサンギェー・ギャツォとグシ・ハーンの子孫であるラサン・ハーンの間に不和が起きて、サンギェー・ギャツォが殺害され、若きダライ・ラマ6世は途方に暮れた。彼は、僧院での学究生活を離れ、世俗の暮らしを選び、完全な比丘の戒律を受けるための修行を放棄した。その後、シガツェのパンチェン・ラマ5世を訪れ、彼の許しを得て、ついに還俗した。ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮での生活を続けたものの、ラサや近郊の村をさすらい、友人とともに、ポタラ宮の裏庭でひがな過ごしたり、ラサやショル(ポタラの下手に広がる地域)の酒場で飲酒や、遊行に明け暮れた。彼は、偉大な詩人であり、作家であった。1706年、中国に招聘されて赴く途中で没した。
ダライ・ラマ7世(ケルサン・ギャツォ)
後世のチベット人は、ツァンヤン・ギャツォは次のような詩を書いて自らがカム地方のリタンに転生することを予言したと信じている。
鳥よ、白き鶴よ
私に翼を貸しておくれ
それほど遠くへではない
リタンを巡って再び戻ろう
予言通り、ダライ・ラマ7世は、6世の死去から2年後の1708年、リタンに住むソナム・ダルギェーとロブサン・チュツォのあいだに生まれた。ダライ・ラマ3世がリタンに建立したトゥプテン・ジャンパリン僧院は、その子の優れた資質に驚いた。リタンの神託は、新しく生まれてくる子は故ダライ・ラマ6世の転生であると予言していた。ところが、政治的状況の混乱から、僧侶たちは新しいダライ・ラマ法王をラサまで連れて行くことができなかったので、代わりにクンブム僧院に連れて行き、そこで彼は、ンガワン・ロブサン・テンペイ・ギェルツェンより教えを受けた。
1720年、ダライ・ラマ7世はポタラ宮で戴冠し、パンチェン・ラマ5世ロブサン・イェシェーより沙弥戒を受け、ケルサン・ギャツォの僧名を得た。1726年、サカダワ(仏陀生誕、涅槃、悟り)の吉祥月に、パンチェン・ラマより具足戒を授かった。ギュメ僧院の僧院長パンチェン・ロブサン・イェシェーと、シャル僧院の僧院長ンガワン・ヨルテンに教えを請い、仏教哲学の主要な論文を全て読破し、顕教、密教すべての指導者となった。
1751年、43歳のとき、チベット政府を治める勅命大臣の協議会であるカシャック(内閣)を組織し、権限の一極集中の弊害があったデシ(摂政)制度を廃止した。これに伴い、ダライ・ラマ法王は、チベットの聖俗両界の権力をあわせもつ元首となった。45歳のとき、ポタラ宮殿内にツェ・ロプタ(俗人の行政官養成校)を設立するとともに、ノルリン・ケルサン・ポタンの離宮を建立した。ダライ・ラマ7世は偉大な学者であり、特に密教関係の著作を多く残した。詩人としても優れていたが、ダライ・ラマ6世と異なり、宗教を題材に採った詩を多く残している。ダライ・ラマ7世の簡素で欠点のない人生は、すべてのチベット人の敬愛を集めた。1757年没。
ダライ・ラマ8世(ジャンペル・ギャツォ)
ダライ・ラマ8世ジャンペル・ギャツォは、1758年にチベット南西部ツァン地方トゥプギェルのラリカンで生まれた。父親のソナム・ダルギェーと母親のプンツォク・ワンモは、もともとカム地方の人で、ケサル王叙事詩に出てくる伝説的英雄の一人の子孫とされている。母親がジャンペル・ギャツォを身ごもった途端、ラリカンは大豊作となり、1本の大麦に前代未聞の3~5本の穂がついたといわれている。母親と親戚が庭で食事をしていると、巨大な虹がかかり、その弓形の一端が母親の肩にかかった(聖者の誕生を告げる大変おめでたい兆し)。生誕からほどなくして、ジャンペル・ギャツォは、顔に微笑みを浮かべながら、しきりと天を仰ぎ、蓮華座を組んで瞑想のようなポーズをとるようになった。パンチェン・ラマ6世パルデン・イェシェーは、このことを聞き、紛れもなくダライ・ラマ法王の転生者であると言った。
ジャンペルは話ができるようになると、「3歳になったらラサに行く」と言った。しだいにチベット全体が、この子はダライ・ラマ8世であると確信するようになった。ダライ・ラマ7世の侍従長だったタクパ・ターイェは、大勢の僧侶を連れてラサにやってきて、当時2歳のジャンペルをシガツェのタシルンポ僧院に連れて行って認定式を行った。パンチェン・ラマはその子にジャンペル・ギャツォの僧名を授けた。
1762年、ジャンペルは臣下とともにラサに戻り、ポタラ宮でダライ・ラマ8世となった。戴冠式を執り行ったのは、未成年のダライ・ラマ法王の国務を代行する初のギェルツァプ(摂政)、デモ・トゥルク・ジャンペル・ジェシであった。7歳でジャンペルはパンチェン・ラマ6世のもと具足戒を受け、1777年に沙弥戒を授かった。ダライ・ラマ8世は、宗教面でのめざましい業績に加え、ラサ近郊に有名なノルブリンカの庭園と夏宮を建立した功績がある。1804年に47歳で没した。
ダライ・ラマ9世(ルントック・ギャツォ)
ダライ・ラマ9世であるルントック・ギャツォは、1805年にカム地方の小さな村デン・チューコルゴンに、テンジン・チューキョンとドゥンドゥプ・ドルマの子として生まれた。
1807年、ダライ・ラマ8世の転生者として認められ、行列の随行のもとラサに赴き、盛大な認証式ののち、1810年、ポタラ宮でダライ・ラマ9世を戴冠した。パンチェン・ラマのもと剃髪の儀式を受け、ルントック・ギャツォの僧名を得た。残念ながら9歳で夭逝。
ダライ・ラマ10世(ツルティム・ギャツォ)
ダライ・ラマ10世であるツルティム・ギャツォは、1816年にカム地方のリタンに、ロブサン・デクパとナムギェル・ブティの子として生まれた。
1822年、ダライ・ラマ法王の転生者として認められ、ポタラ宮で戴冠するとともに、パンチェン・ラマ7世テンペイ・ニマが剃髪の儀を行い、ツルティム・ギャツォの僧名を授けた。1826年、10歳でデプン僧院に入り、さまざまな仏教哲学の書を学び、顕教と密教を修めた。1831年、ポタラ宮の改修を行い、19歳のときに、パンチェン・ラマのもと具足戒を受けた。しかしながら、健康が優れず、1837年に早世した。
ダライ・ラマ11世(ケードゥプ・ギャツォ)
ダライ・ラマ11世ケードゥプ・ギャツォは、1838年に、カム地方のガルタンに、ツェタン・ドゥンドゥプとユンドゥン・ブティの子として生まれた。
1841年、ダライ・ラマ法王の転生者として認定され、パンチェン・ラマ7世テンペイ・ニマのもと剃髪の儀が執り行われ、ケードゥプ・ギャツォという僧名を得た。1842年にポタラ宮で戴冠し、11歳のとき、パンチェン・ラマより沙弥戒を受けた。若年にかかわらず、国民の支持のもとチベットの政治と宗教の長となったが、1856年、ポタラ宮で急逝した。
ダライ・ラマ12世(ティンレー・ギャツォ)
ダライ・ラマ12世ティンレー・ギャツォは1856年、ラサ近郊のロカに、プンツォク・ツェワンとツェリン・ユドンの子として生まれた。
1858年、ダライ・ラマ法王の転生者として認定。ラサに移り、ガンデン僧院長のレティン・ンガワン・イェシェー・ツルティム・ギェルツェンより、ティンレー・ギャツォの僧名を授かった。1860年、5歳のとき、摂政のロブサン・ケンラプに沙弥戒を授かり、ポタラ宮で戴冠した。1873年18歳でチベットの政治と宗教の長の座につく。1875年、ポタラ宮で20歳で死去。
ダライ・ラマ13世(トゥプテン・ギャツォ)
ダライ・ラマ13世であるトゥプテン・ギャツォは、1876年、チベット暦の丙子年(火の鼠の年)に、南チベットのタクポ・ランドゥンの農家で、クンガ・リンチェンとロブサン・ドルマの子として生まれた。
1878年、神託の予言と誕生時の吉祥の兆しから、ダライ・ラマ法王の転生として認定された。ラサに移り、当時のパンチェン・ラマであるテンパイ・ワンチュクの下で剃髪の儀が行われ、ンガワン・ロブサン・トゥプテン・ギャツォ・ジグデル・チューキ・ナムギェルの僧名を授かった。1879年、ポタラ宮でダライ・ラマ13世として戴冠。 1895年8月8日より政治と宗教の長となるが、当時、チベットは、膨張を続ける帝政ロシアと英領インドの狭間にあり、チベットをめぐり大国が領土争いのつば競り合いをしている状況であった。1904年に英国のチベット侵攻が起き、1909年には清の侵攻があったが、いずれもうまく切り抜けたことで、ダライ・ラマ13世の権威は増した。
1909年、趙爾豊将軍の四川軍がラサ市街に達しようとしているとの知らせが広がると、ダライ・ラマ13世とチベット政府の高官はラサを離れ、インドに向かった。一行は、ドモの山を越え、チベットとインド・シッキムを分けるジェレプラ峠における国境をインド側と討議した。 1911年、清が崩壊すると、チベット人は領土から清の残留軍を追放し、ダライ・ラマ13世はチベットに帰還した。帰還後のダライ・ラマ13世は、ダライ・ラマ5世以来、絶えてなかった強い政治的権威を発揮するようになり、近代化に努めるとともに、チベット王政システムの抑圧的な部分の改革を行った。ダライ・ラマ13世はインド亡命中に知った近代社会の様子に感銘を受け、チベットに初めて通貨と硬貨を導入した。1913年、国内初の郵便局を設立し、工学を修めるため、4人の若きチベット人を英国に留学させた。1913年のチベット暦正月8日、チベットの独立を再確認する五カ条の公的声明を出した。 1914年には、チベット軍に特別訓練を施し、軍備増強に努めた。1916年、チベット医学の独自の伝統を保持するため、精鋭の若者と各地の僧院の僧侶を集め、現在もメンツィカンとして有名なチベット医学暦法学研究所を設立した。1923年に、公安と国民福祉を目的にラサに警察を設置し、同年、ギャンツェに最初の英語学校を設立した。1933年に58歳で死去。