仏教概論
仏教は、小乗仏教と大乗仏教という二つの乗り物(修行道)に分類されています。小乗仏教はさらに声聞乗と独覚乗(縁覚乗)に分類され、この二つの乗り物は相対的に見た修行者の能力のレベルと、修行者がどのような結果に到達できるかに基づいて区別されていますが、修行者が歩む修行道の教義上の特徴は基本的に同じです。声聞乗と独覚乗という小乗仏教の修行道に適する気質を持つ修行者は、自分自身が輪廻からの解脱を得ることを目的としており、自分が輪廻の苦しみからできるだけ早く解放されて解脱に至りたいという差し迫った動機を持っているからです。私たちが輪廻に束縛されている原因は、自我への捉われ(我執)であり、輪廻から解脱して自由を得るためには、無我を理解する智慧を育むことが必要です。そこで、声聞乗と独覚乗に従う修行者たちは、大乗の修行者である菩薩と同じように、無我の理解を育まなければなりません。そのためには、戒律、禅定などの修行に支えられて無我に瞑想し、欲望、怒り、無知などの煩悩を断滅する必要があります。
小乗の修行者は、完全なる仏陀の境地に至ることを目的として修行をしているわけではありませんが、小乗の修行道は、究極的な意味では完全なる仏陀の境地に導いていくための手段となっているため、小乗の修行道は悟りを妨げるものであるなどと考えて誤解してはいけません。何故ならば、『法華経』やその他の経典に、「小乗の修行道は悟りに至るための手段である」と説かれているからです。釈尊がこの世に現われたのは、釈尊が悟られた智慧を有情たちも得られる可能性があるからです。釈尊ご自身が修行するべき道を私たちに示されたのは、一切有情を仏陀の境地へと導くためでした。小乗の修行道は、直接的に完全なる仏陀の境地に導くものではないとしても、実際には小乗の修行者たちも最終的に大乗の道に入り、完全なる仏陀の境地に至ることができると説かれているのです。
小乗の修行者であっても、大乗の修行者と同じように、すべての現象には実体がないという無我の見解を理解しなければなりませんが、それは小乗と大乗の間に何も違いが存在しないという意味ではありません。大乗仏教の教義は、すべての現象の無我を明らかに説いているだけでなく、菩薩の十地、六波羅蜜の修行、一切有情のために完全なる悟りを得るための祈願、大いなる慈悲の心(大悲)、さらに、自分が積んだ功徳を悟りのために廻向するべきことも説いており、功徳と智慧という二つの資糧について、すべての汚れを断滅した時のはかり知れない卓越した境地のありようについてなども説いているからです。
つまり、小乗と大乗は、その哲学的な見解の違いによって分類されているのではなく、すべての方便の修行の中で、小乗と大乗がそれぞれ何を実践し、何を実践しないのかによって区別されているのです。ナーガールジュナ(龍樹)とその弟子アーリヤデーヴァ(聖提婆)は、「母(智慧)はすべての息子たちに共通の因であり、父(方便)は息子たちの種族を区別するための因である」と述べられています。つまり、智慧は息子たちにとって共通の母であり、四種類の聖者たち(声聞の聖者・独覚の聖者・菩薩の聖者・仏陀という聖者)を、特に小乗と大乗の種族に区別するための因が、方便である菩提心を育む手段を心得ているかどうかということなのです。
一般的には、小乗と同じように、大乗も波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)という二つの乗り物に分類することができます。大乗に共通した目的は、一切有情を救済するために完全なる仏陀の境地に至りたいという熱望によって六波羅蜜の修行をすることです。修行者は、大乗という同じ修行の道によって真言乗に進んでいくことができるのであり、そのようにタントラの教えにも説明されています。しかし、波羅蜜乗の修行道のみに従う大乗の修行者は、大乗の一般的な修行道のみに従って修行の実践をしますが、一方で真言乗の修行者は、波羅蜜乗には説かれていない特別なタントラのテクニックを用いて六波羅蜜の修行をするのです。
「因の乗り物」「波羅蜜乗」などは同義の言葉であり、「真言乗」「金剛乗」「結果の乗り物」「方便の乗り物」なども同様に同義の言葉です。「因の乗り物」と「結果の乗り物」には違いがあります。大乗の中の「因の乗り物」では、修行期間中は、結果の境地において達成される仏陀の四身(完全に清浄な四つのおからだ)のいずれかと類似した姿として自分を瞑想することはありません。一方で、修行期間中に、仏陀の四身のいずれかに類似した姿として自分を瞑想するのが大乗の中の「結果の乗り物」、つまり「真言乗」です。ツォンカパ大師は『真言道次第広論』の中で次のように述べられています。「乗とはすなわち、ここで望まれている結果と、その結果をもたらす因を運ぶものなので、“乗り物”と言われる。結果とは、住処、からだ、所有物、行ないに関する四つの完全な清浄さを得ることであり、つまり、仏陀の宮殿、仏陀のおからだ、仏陀の持物、仏陀の行ないを備えた境地のことを意味する。修行者は、まだ悟っていない現在の段階から、本物の仏陀であるかのように、この宇宙とそこに住む有情たちを浄化するための聖なる宮殿、聖なる眷属、聖なる儀式用法具、聖なる行ないを備えた存在として自分を瞑想するのである。このように、結果をもたらす乗り物に従って瞑想することによって修行を高めていくので、これは“結果の乗り物”である。」
このように、大乗仏教の体系は波羅蜜乗と真言乗に分類されています。それは、有情救済を成し遂げるための仏陀の色身(形あるおからだ)を得るための実質的な方法が、波羅蜜乗と真言乗で異なっているからです。一般的に、空を理解する智慧に関しては小乗と大乗の教えに何の違いもありませんが、すでに述べたとおり、その方法論に関しては明確に区別されなければなりません。特に、大乗が波羅蜜乗と真言乗に分類されているのは、深遠なる空を理解する智慧に違いがあるからではなく、この二つの大乗の乗り物は、その方法論が異なるという点で区別されているのです。大乗の主な方法論とは、仏陀の色身を達成する方法のことです。真言乗における色身の成就方法は、修行者が自分自身を色身と類似した現われを持つ姿として瞑想するという「本尊ヨーガ」を実践することであり、この方法は波羅蜜乗における色身の成就方法よりもずっとすぐれています。
大乗に従う弟子たちには四つの段階があります。劣った者、中位の者、すぐれた者、最もすぐれた者の四種類です。タントラにも四つの段階のタントラがありますが、これらは四種類の弟子たちを対象として説かれた教えです。弟子たちは、四種のタントラによって真言乗の修行に入りますが、四種のタントラは四つの扉に似ています。四種のタントラとは、所作タントラ、行タントラ、ヨーガタントラ、無上ヨーガタントラであり、これから説明するカーラチャクラタントラは、無上ヨーガタントラに属しています。
カーラチャクラ(時の輪)について
カーラチャクラの全体的な意味は、「外のカーラチャクラ」「内のカーラチャクラ」「別のカーラチャクラ」という三つのカーラチャクラに含まれています。「外のカーラチャクラ」とは環境世界、つまり、仏教の伝統的宇宙論である須弥山世界と、そのまわりを巡る太陽や月の運行のことを意味しています。「内のカーラチャクラ」には、私たちが住む世界である南贍部洲の内部、つまり地球上の生きものたちと、そのからだの内部に存在する脈管(ツァ)、風(ルン)、心滴(ティグレ)、五大要素などが含まれています。「別のカーラチャクラ」とは、灌頂、生起次第と究竟次第のカーラチャクラの修行を意味しており、外と内のカーラチャクラ以外の別のものをさしています。つまり、師は灌頂を授与することによって、弟子の精神的・肉体的な連続体の流れを成熟させ、弟子たちは生起次第と究竟次第の修行道において瞑想の修行をするのです。このようにして、修行者は空の本質を持つ仏の姿として自らを瞑想することによって、結果の境地における仏陀のおからだを実現するのであり、これが「別のカーラチャクラ」と言われます。
仏陀が説かれたカーラチャクラの教えは、カーラチャクラの根本タントラ『吉祥最勝本初仏タントラ』(paramadibuddha)に述べられています。
「師は霊鷲山において般若波羅蜜の教えを説かれ、またシュリ・ダーニャカタカ(南インドのアマラヴァティ、アーンドラ・プラディーシュ州)において真言乗の教えを説かれた。師はどのタントラを説かれ、いつ、どこにいらしたのか? どの場所で、世間的な眷属はどなたで、何が目的だったのか?」
「釈尊は、般若波羅蜜(完成された智慧)という無上なる大乗の教えを霊鷲山において菩薩たちに説かれた。それと同時に、如来(釈尊)は法界というマンダラの中にある大塔内で、菩薩たちや他の方々と共に過ごしておられたのである。如来は、虚空にある普遍の金剛という館の中で、実体を持たず、法界と融合して、非常に透明に光り輝いておられた。この美しい法界において、師は人々が功徳と智慧を積むことができるようにとタントラの教えを説かれたのである。」
カーラチャクラの根本タントラにはこのように述べられています。「金剛手の化身である有名なシャンバラ国のスチャンドラ王は、奇跡的な力によってすばらしい法界の中に入られた。スチャンドラ王はまず右遶してから、宝石で作られた花を持って師の蓮華の足元に礼拝し、合掌して完全なる仏陀の御前に坐った。そしてスチャンドラ王は、タントラの教えを解説し、授けてくださるようにと懇願したのである。」
カーラチャクラは、私たちの師である釈迦牟尼仏陀が説かれた教えです。釈尊は、チベット暦4月15日の満月の日の夜明けに、インドのブッダガヤの菩提樹の下で完全なる悟りを開かれて、その方法を私たちに示してくださいました。そして一年間、釈尊は一般的な波羅蜜乗の教えを説かれ、特に、霊鷲山山頂の初転法輪において、般若波羅蜜の教えを説かれたのです。これが大乗の波羅蜜乗の体系であり、これこそ大乗の根幹をなす究極の法輪です。
釈尊が悟りを開かれてから12ヶ月目のチベット暦3月15日の満月の日、釈尊は霊鷲山において波羅蜜乗の教えを説かれましたが、それと時を同じくして、南インドのシュリ・パーヴァタ(南インドのナーガールジュナコンダ、アンドラ・プラデーシュ州)の近くに位置するシュリ・ダーニャカタカ(アマラヴァティ)の大塔の中に別のお姿を現されて、真言乗の教えを説かれています。
大塔の大きさは、上から下まで6由旬(古代インドの距離単位。約16km)以上もあり、その中で釈尊は二つのマンダラを作り出されました。下には法界口自在マンダラを、上には明るく輝くすばらしい星座のマンダラを現わされたのです。釈尊は、大楽がとどまる金剛界の偉大なマンダラの中の金剛獅子座の中心でカーラチャクラの三昧に深く入られ、マンダラの本尊のお姿で立っておられました。
マンダラの中には、仏陀、菩薩、忿怒尊、天人、竜神、天女などすばらしい眷属がおられ、マンダラの外には、金剛手の化身であり、この教えを請願したシャンバラ国のスチャンドラ王がおられました。王は奇跡の力によってシャンバラ国よりシュリ・ダーニャカタカに来られたのであり、王の随行者たちが聴聞できるようにとカーラチャクラの教えを請願されたのです。シャンバラ国内にある96の偉大な地域を治める96人の支配者たちが、無数の恵まれた菩薩たち、天人、悪魔、他の者たちと共にその場を共有していました。
釈尊は、そこに集まった者たちに世間と超世間の灌頂というすばらしい法を授けて、彼らが仏陀の境地に至るであろうことを予言され、一万二千頌からなるカーラチャクラ根本タントラ『吉祥最勝本初仏タントラ』の教えも説かれました。スチャンドラ王はその教えを一巻の本に書き記して、奇跡の力によりシャンバラ国に戻ったのです。
シャンバラ王国に戻ったスチャンドラ王は、根本タントラに関する六万頌の註釈書を著し、宝石で作られたカーラチャクラの立体マンダラも建立しました。スチャンドラ王は息子のスレーシュヴァラを後継者の王とし、タントラの師に任命して逝去されましたが、その後、カルキ(シャンバラ国王の呼称)・ヤシャス、カルキ・プンダリーカをはじめとする多くの偉大な王たちがシャンバラの王家に出現し、彼らはカーラチャクラという深遠なる仏法の教えを太陽と月のように光り輝かせたのです。
カーラチャクラの教えは、これらのシャンバラ王国のカルキの後継者たちに受け継がれていき、最終的に再びインドへ伝えられることになりました。その経緯については二つの伝説があります。「ラ」の伝統と「ド」の伝統による伝説であり、それについてここで説明します。
「ラ」の伝統では、「菩薩の三部作」と呼ばれるカーラチャクラとそれに関連する三つの有名な註釈書が三人の王の統治下でインドに登場しています。ブッダガヤを中心とする三人の王とは、東方のデホパーラ、南方のジョーガンガ、西方のカナージです。その頃インド東方にあった5つの国の一つ、オリッサで生まれたシルという偉大な学匠がおり、シルはすべての仏法を習得していました。シルはラトナギリ僧院、ヴィクラマシーラ僧院、ナーランダー僧院で仏教のテキストをすべて学んで、特にトルコ人たちによって破壊されることのなかったラトナギリ僧院で学問を修めました。
シルは、一回の生で悟りを開くためには、一般的には真言乗の実践が必要であり、特に、「菩薩の三部作」に含まれている教義の意味を明らかに知る必要があることを理解していました。そして、その教えがまだシャンバラに現存していることを知り、自分の本尊のアドバイスに従って、海の宝を探しにいく商人たちの旅に加わることにしたのです。そこで海を渡る商人たちの同意を得て、六ヵ月後に会うことを約束して別々の方角に別れていきました。
シルは修行の段階を進め、最終的に山に登ってある男に出会いました。男はシルに「どこへ行くのか?」と尋ねました。「私は『菩薩の三部作』を探しにシャンバラに行くのです」とシルが答えると、男は「シャンバラに行くのは非常に難しい。しかし、もしおまえが理解できるならそれをここで聞くこともできる」と言ったのです。そこでシルは、その男が文殊菩薩の化身であることを悟ったのでした。シルは五体投地をしてマンダラを捧げ、教えを乞いました。その男はすべての灌頂とタントラの註釈と口頭伝授をシルに授けました。男はシルのからだをつかみ、シルの頭に花を置いて彼に加持を与えると、「『菩薩の三部作』のすべてを理解せよ」と言ったのです。こうして、一つの器から別の器に水が注がれるように、シルは『菩薩の三部作』のすべてを理解したのでした。シルは来た道を戻り、商人たちと会って東インドへ戻っていきました。
一方、「ド」の伝統によると、カーラチャクラはカーラチャクラパダという導師によってインドに再び紹介されたことになっています。金剛怖畏(ヤマーンタカ)の修行をした一組の男女が、息子の誕生のために金剛怖畏タントラに説かれている通りの儀式を執り行い、めでたく息子が誕生しました。その男の子が成長した時、北方で菩薩たちが法を説かれたことを知って、その若者は教えを聴聞するためにそこへ出かけていこうとしたのです。若者の霊的な力によって、シャンバラ王国の国王カルキが、深遠なる仏法に対するこの若者の純粋な心の動機と熱心さを知りました。カルキは、もしこの若者がシャンバラに来ようとするなら、シャンバラに来るには水のない荒地を四ヶ月もかかって渡らなければならないため、命の危険に遭遇するだろうということを知ったのです。そこでカルキは化身の姿を現して、砂漠の境界でこの若者に会いました。
カルキは若者に尋ねました。「お前はどこへ何をしにいくのか?」若者が彼の意図を伝えると、「この道は大変困難な道だ。しかし、もしお前がその教えを理解できるなら、ここで聞くこともできるのではないか」とカルキは言ったのです。そこで青年は、その人がカルキの化身であることを知って、カルキにアドバイスを求めました。その場でカルキは若者に灌頂を授け、四ヶ月をかけてこの若者にすべての無上ヨーガタントラと、特に「菩薩の三部作」と言われる三つの註釈書の教えを授けたのです。水瓶の縁まで水がいっぱいに満たされるように、若者はすべてのタントラの教えを理解し、暗誦しました。若者がインドに戻った時、若者は文殊菩薩の化身として有名になり、「カーラチャクラパダ」という名で呼ばれるようになったのです。
「ラ」と「ド」の伝統は、カーラチャクラがシルとカーラチャクラパダによってインドに紹介されたことを物語っています。その後インドでは、カーラチャクラの教えは途切れることなく学ばれ、実践され続けてきたのであり、最終的にチベットにもたらされました。「ラ」の伝統と「ド」の伝統は、このような経緯によって二つの主要な継承の系譜となっています。
「ド」の伝統は、カシミールの学匠ソマナータがチベットを訪れた時に始まりました。ソマナータは最初にチベットのカラグに到着して、リョ族の人たちと共に滞在していました。百の分量の金を代価に、ソマナータは偉大なるカーラチャクラの大註釈『無垢光』(ヴィマラプラバー)の半分をチベット語に翻訳しましたが、途中で彼は気分を害して仕事をやめてしまいました。彼は金と翻訳原稿を持ってパン・ユル・ドゥブのところに行きました。そこには「サン」族のチュン・ワがいてソマナータを彼の師とし、「ド」族のシェーラブダクが翻訳官を務めて、ソマナータとド・シェーラブダクは『無垢光』(ヴィマラプラバー)のすべてを翻訳したのです。
「ド」の伝統は、ラマ・チュク・ウーセルに引き継がれました。このラマは、カーラチャクラも含め、「ド」族のすべての教えを習得していました。彼の弟子がラマ・ガロであり、ラマ・ガロが「ド」と「ラ」の伝統を両方習得して、二つの伝統を一つに結合した系譜として伝えたのです。
「ラ」の伝統は、ニェンママンユルに生まれた有名な翻訳官のラ・ドルジェダクの甥である「ラ」族のチョラブから始まっています。ラ・チョラブは「ラ」族の教義をすべて暗誦して理解していました。彼はカーラチャクラの教えを学びたいと願って中央ネパールに赴き、そこで5年10ヶ月5日の間ずっと学匠サマンタシュリーに仕えました。サマンタシュリーはカーラチャクラのテキストをすべて解説し、ラ・チョラブに灌頂と口頭伝授を授けました。その後ラ・チョラブはサマンタシュリーをチベットに招待して、そこで二人はカーラチャクラタントラとその註釈書を補助的なテキストと共に注意深く翻訳したのです。
「ラ」の伝統は、ラ・チョラブの息子と孫に引き継がれ、最終的にラマ・ガロに伝わったことはすでに述べたとおりです。ラマ・ガロは、「ラ」と「ド」の伝統を両方とも伝え、その継承はプトン・リンチェンドゥブ、ツォンカパなどの偉大な導師たちにも伝わりました。カーラチャクラに関する学問と実践は、今日もなお存在している「ラ」と「ド」の伝統に基づいています。
カーラチャクラタントラの実践は、仏教のすべてのタントラと同様に、まず最初に適切な灌頂を受けることで始まります。灌頂を正しく授与し、そして授かるためには、師と弟子の双方が必要とされる資格を備えていなければなりません。真言乗の師に必要とされる資格については、ロサン・チュキ・ギャルツェンが次のように述べられています。「師となる者は、自らの身・口・意をコントロールできなければならない。すぐれた知性があり、忍耐深く、正直で人を騙したりしない。真言とタントラをよく知っていて、現実のありようを理解し、テキストを著し、説明する能力を持っていなければならない。」このようなすぐれた師を現在も見つけられるということは、私たちにとって大変幸運なことなのです。
弟子たちの側からは、「出離の心」「菩提心」「空の理解」という大乗の修行道における三つの主要な要素についての体験を持っていることが必要とされます。もし、この三つの要素に関する体験を持っていない場合でも、弟子は少なくとも知的なレベルにおいてこの三つの要素に馴染んでいて、称讃の気持ちを持っていなければなりません。
三つの要素の中で最も重要なのは「菩提心」であり、何よりもまず、灌頂を受ける際の心の動機として菩提心を持っていることが必要とされます。マイトレーヤ(弥勒)は『現観荘厳論』の中で、「菩提心とは他の有情たちのために完璧な悟りを得たいと願う心である」と定義付けています。カーラチャクラの灌頂を授かるという特別な状況にあてはめるならば、弟子たちは次のような動機で菩提心を育まなければなりません。「一切有情を救済するために私はカーラチャクラ尊の境地を実現する必要がある。そして私は一切有情をカーラチャクラ尊の境地に至らしめなくてはならない。」このような心の動機によって灌頂を授かることが必要とされているのです。
一般的に言えば、タントラの灌頂の目的は、灌頂の儀式を通して師が弟子の心とからだの連続体を成熟させるということにあります。「成熟させる」とは、弟子に生起次第と究竟次第の修行を実践できる力を与える、という意味です。特に、カーラチャクラの灌頂であれば、カーラチャクラタントラの修行を実践できる能力を弟子に与えて、究極的には、弟子にカーラチャクラ尊の境地を実現させることが目的になります。
カーラチャクラには11の灌頂があります。子供のようにマンダラに入る灌頂が7つ、世間的なレベルの高度な灌頂が3つ、出世間のより高度な灌頂が1つです。とりあえず一時的な目的として、世間的なレベルの悉地(超越的な能力の成就)のみを求めている弟子たちには、下のレベルの7つの灌頂だけが授与されます。しかし、世間的なレベルを超えた仏陀の境地を得ることを主な目的としている弟子たちには、11のすべての灌頂が授与されます。子供のようにマンダラに入る7つの灌頂の第1は水の灌頂です。この灌頂は、生まれたての赤子に母親が産湯を使わせる様に似ています。第2の灌頂は宝冠の灌頂で、子供の髪を束ねて結い上げる動作に当たります。第3の絹リボンの灌頂は、子供の耳に穴を開けて耳飾りをつける様に似ています。第四の金剛杵と金剛鈴の灌頂は、子供が笑い、話をする様に似ています。第五は行動の灌頂で、欲望を起こす五つの知覚能力の対象を享受する様に似ています。第六は名前の灌頂で、子供の命名に当たります。最後の第7の灌頂は、真言の許可を与える灌頂です。この灌頂は弟子たちの障りを滅し、寂静、繁栄、征服、破壊などの不思議な力を達成させるものです。
世間的なレベルの3つの高度な灌頂の第1は水瓶の灌頂で、弟子が明妃の胸に触れることで生じる楽空無別の智慧(大楽と空が一味に溶け合う智慧)がその本質となります。第2は秘密の灌頂で、弟子が菩提心を味わうことによって生じる楽空無別の智慧がその本質です。第3は智慧の灌頂で、弟子は明妃と合体することによって生じる喜びを体験して、楽空無別の究極の智慧を得ることができます。
出世間のより高度な灌頂は「第4の灌頂」あるいは「言葉の灌頂」とも呼ばれます。前の智慧の灌頂では、弟子は菩薩の第11地に至る力を獲得します。そこで師は象徴的に、最勝なる不動の大楽と空の無別が集約された智慧のからだを示して、「これがそれである」と述べて第四の灌頂を授けます。この灌頂は、弟子にカーラチャクラ尊としての完全なる仏陀の境地に至る力を与えるものです。
チベット語からの英訳と編集はジョン・ニューマンによるものである。
英訳者註:この著作の主題に関する詳しい情報については以下の本を参照いただきたい。
Dalai Lama, Kalachakra Initiation Rites and Practices (London: Wisdom Publications,1985), Geshe Lhundup Sopa earl, The Wheel of Time: The Kalachakra in Context (Madison, Wisconsin USA: Deer Park Books, 1985)
ダライ・ラマ法王14世による過去のカーラチャクラ灌頂
(番号 / 実施年月 / 場所 / 参加人数)
1. 1954年5月 / チベット、ノルブリンカ / 10万人
2. 1956年4月 / チベット、ノルブリンカ / 10万人
3. 1970年3月 / インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ダラムサラ / 3万人
4. 1971年1月 / インド、カルナータカ州 バイラクッペ / 1万人
5. 1974年12月 / インド、ビハール州 ブッダガヤ / 10万人
6. 1976年9月 / インド、ラダック、レー (インド) / 4万人
7. 1981年7月 / アメリカ、ウィスコンシン州 マディソン / 1,500人
8. 1983年4月 / インド、アルーナチャル・プラデーシュ州 ディラング / 5千人
9. 1983年8月 / インド、スピティ、ダボ / 1万人
10. 1985年7月 / スイス、リコン / 6千人
11. 1985年12月 / インド、ビハール州 ブッダガヤ / 20万人
12. 1988年7月 / インド、ジャンムー・カシミール州 ザンスカール / 1万人
13. 1989年7月 / アメリカ、ロサンゼルス / 3,300人
14. 1990年12月 / インド、ウッタル・プラデーシュ州 サルナート / 13万人
15. 1991年10月 / アメリカ、ニューヨーク / 3千人
16. 1992年8月 / インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 カルパ、キノール / 2万人
17. 1993年4月 / インド、シッキム州 ガントク / 10万人
18. 1994年7月 / インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ジスパ、キロン / 3万人
19. 1994年12月 / スペイン、バルセロナ / 3千人
20. 1995年1月 / インド、カルナータカ州 ムンゴット / 5万人
21. 1995年8月 / モンゴル、ウランバートル / 3万人
22. 1996年6月 / インド、スピティ、ダボ / 2万人
23. 1996年9月 / オーストラリア、シドニー / 3千人
24. 1996年12月 / インド、西ベンガル州 サルガラ / 20万人
25. 1999年8月 / アメリカ、インディアナ州 ブルーミントン / 4千人
26. 2000年8月 / インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 スピティ、キー / 2万5千人
27. 2002年10月 / オーストラリア、グラーツ / 1万人
28. 2002年10月 / インド、ビハール州 ブッダガヤ / 20万人
29. 2004年4月 / カナダ、トロント / 8千人
30. 2006年1月 / インド、アーンドラ・プラデーシュ州 アマラヴァティ / 10万人
31. 2011年7月 / アメリカ、ワシントンD.C. / 8千人
32. 2012年1月 / インド、ビハール州 ブッダガヤ / 20万人
33. 2014年7月 / インド、レー、ラダック ジャンムー・カシミール州 (インド) / 15万人
34. 2017年1月 / インド、ビハール州 ブッダガヤ / 20万人