インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝、法話会が行われる法王公邸内の居室に入られたダライ・ラマ法王は、モニターに映し出された聴衆に向かって、合掌しながら挨拶された。そこでパーリ語による誦経がスリランカのミャンマー寺院(Myanmar Temple)の僧侶たちによって開始され、それが終わるとマレーシアの上座部仏教評議会(Theravada Buddhist Council)のメンバー、次にインドネシアのバンテ・サンタチット師による誦経が続いた。
法王はチベット語で説法をされ、トゥプテン・ジンパ博士が英語に訳してその内容を伝えた。その間に、中国語、ヒンディー語、韓国語、日本語、ベトナム語、ロシア語、モンゴル語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ネパール語、タイ語、(スリランカの公用語の1つである)シンハラ語、インドネシア語、ラダック語で、モニターには映らない各通訳者たちが、法王の言葉を各国語に訳して配信した。
「今日は法話会の2日目で、仏陀の弟子である私たちがこうして集まる機会を得ており、それはとても素晴らしいことです。仏陀の教えは5000年この世に留まるだろうというのが一般的な理解ですが、そのうちの2600年は既に過ぎてしまいました。仏教の伝統は、伝統的な仏教国においては堅固に保たれているようです。また、それ以外の地域においても仏教への関心は高まってきています。ですから伝統的な仏教徒である私たちが、仏陀の法の興隆のために何ができるのかを考えることが大切です」
「私たちは、仏教の異なる伝統についての理解を深めていく必要があり、そこにはお互いが対話に臨むことも含まれます。私は仏教が末長く続いていくことを祈っていますし、衰退してしまった地域においても、再び仏教が栄えるようにと願っています」
「仏教にはパーリ語の伝統とサンスクリット語の伝統という2つの主流がありますが、それぞれの伝統に属している人々が、お互いに対話する必要があります。例えば、私がブッダガヤを訪れる時には、いつもマハーボーディ寺院に巡礼して敬意を表していますが、同様にタイ僧院の友人の元にも頻繁に足を運んでいます」
「私たちはお互いの伝統において、仏法がどのように解釈されているのか、その理解を深めていく必要があります。また、宗教的実践よりも、心理学的・哲学的洞察をもたらす指針としての仏教に興味を持つ人々がいることも認識するべきです。ですから私たちは、伝統的な役割と、世俗の倫理における心の科学としての仏教、その両方を協力して護持していかなければなりません」
「それでは『大念処経』を読んでいきましょう。序文において、この経典が書かれた状況が説明されています。仏陀は、カンマーサダンマというクルの町の中に住んでおられ、そこで比丘たちに次のように話しかけられました」
「これは、最終的に滅諦、すなわち涅槃を目指す仏陀の教えの核心です。それは、段階を踏んで進んでいく、戒学・定学・慧学の三学の実践において詳述されている修行の道です。その最初の段階では、気づきによって身体と言葉と心の粗いレベルの行為を制御します。次に禅定、すなわち定学の実践になりますが、これは無我、あるいは空を体得する実際の智慧の修行という、修行道の心髄のための礎石のようなものです。ですから、テキストの始めにあるこのセクションにおいて、修行道全体の概略が示されています」
「仏陀は四念処(四種の憶念)がどういうものであるかを説明されています。心を落ち着かせるために静かな場所に行き、どのような姿勢を取るべきかに言及された後、意識的な呼吸について描写されています。入息・出息に注意を払い、息が長いのか短いのかをよく観察して、それを正しく知ります。このような憶念と正知注を保ちながら、呼吸に焦点を当て続けます。この実践がより深い憶念をもたらします」
注:憶念とは、対象の特徴をよく知っていて、それを忘れず、気を散乱させないという三つの機能を持つ心のこと。マインドフルネス、注意深さ。
正知とは、憶念の対象に心がとどまっているかどうかを調べる監視作用を持つ心のこと。
「次に身体が憶念と正知の対象になり、横になっている、立っている、歩いている、座っているという4つの動きに言及されます。何をしている時でも憶念と正知が常に働いて、よく観察されなければなりません。そうでないと、心が散乱して多くの問題が生じます」
「身体に注意を向けることは重要ですが、それ以上に大切なことは、憶念と正知を心に保ち続けることです。腕の良い陶芸家が、ろくろをどれくらい回せばよいか知っているように、熟練した瞑想者は必要なだけ憶念と正知を用いることができます」
「身体の各部分の性質について見ていけば、生存とは苦しみそのものでできていることが分かります。そして苦しみとは何か、苦しみの源とは何かを問うなら、それは心から生じています」
私たちの生活の中で憶念を起こすことについて、法王は僧と尼僧は、満月と新月に行われる布薩会(懺悔の儀式)に出席しなければならないと述べられた。布薩会においては長短いずれかの『波羅提木叉経』(別解脱戒の経典)が誦経される。法王は、ご自身の個人教師であった先代のリン・リンポチェが告げられた、ダライ・ラマ13世が、三大僧院を始めとする大僧院の僧侶たちに、少なくとも年に一回、夏安居の期間に『波羅提木叉経』を誦経するように指示されたという話を思い起こされた。
法王ご自身は『波羅提木叉経』を暗記し、チベットの僧院の行事において一度誦経したことがあり、亡命後も数回そのような機会があったと明かされた。この経典には比丘戒を持つ僧侶たちがどのように僧院生活を送ればいいのか、その指針が詳細にわたって示されている。これを読めば、僧侶が日々の行いに憶念と正知を払うことがいかに大切であるか、はっきりと分かるという。
一つ留意すべきことがあり、この経典は暗唱しければならず、経典を見ながら読むことは許されなかったという。しかしもし目上の僧侶が途中で暗唱しきれなかった場合、他の僧侶が続きを唱えることができるという習慣もあった。法王は、南インドに再建された三大僧院において、少なくとも年に1回、この経典を全部唱えるという素晴らしい伝統を保持していくことを提案している、と付け加えられた。
法王はテキストに戻って、次のように続けられた。
「『大念処経』では、身体の各部分の不浄な側面についての省察が続いていきます。身体の各部分をよく観察して認識することが、各穀類を正しく認識することに例えられています。そして最終的に、身体は不浄な物質から成り立っており、執着する価値のないものであるとテキストは説いています。次に地・水・火・風の要素に結びつけて身体が考察されます。私たちは身体には堅固な実体があると思っていますが、実際は様々な要素が組み合わさってできているのであり、指をさして示すことのできる実体があるわけではありません」
「僧侶たちは墓場に行って身体が分解し、腐っていく様子をよく考察するように奨められます。そして目の前にある死体と自分の身体を比べ、“自分の身体も同じ自性をもち、やがてはこうなる。この運命からは逃れられない” と知るのです。そうすることによって苦しみの本質を認識し、無我の教えが指し示されます。私たちの身体についての思い込みの根底には、身体の持ち主としての “私” という実体が存在し、身体は執着の対象だ、という感覚があります。しかしこのような考察によって、それぞれの構成部分から切り離された、独立した身体というものは存在しないということが分かるのであり、よって身念処は執着を減らすために有効です」
「次に僧侶は感受について省察します。私たちは自ずと快い感覚に惹かれ、不快な感覚を嫌悪します。受念処によってこのような私たちの極端な反応が、緩和されることでしょう。欲求に内在するものは不安と嫉妬ですが、欲求が減れば、それだけ不安も減るはずです」
「どこから感受がやってきて、どうしてそれに反応してしまうのでしょうか。私たちには執着しがちなものと、嫌悪しがちなものがあります。嫌悪は怒りや憎しみなどとして表出するかもしれませんが、より深いレベルのありようを見つめ、そこにある意図や動機、感情について探らなければなりません」
「そして四念処の瞑想は、心から心の対象へと進みます。私たちが信じている多くの現象は、心が作り出した概念に過ぎないと認識することで、無我や空の理解が身近なものとなってきます。実際には堅固なものなど何もなく、実体をもって自らの力で存在している事物は何もないので、執着の全ての土台が損なわれるのです」
「この経典では、身体から感受へ、感受から心へ、心から心の対象である諸法へと瞑想の焦点を変えながら、深まる理解について明らかにしています」
「私は毎日の修行の中で、ナーガールジュナ(龍樹)が『根本中論頌』の開経偈で記されている、“縁起を説かれた仏陀” に対して礼拝されていることを省察していますが、これは諸法に関する自性の観点からの空の提示です」
「現実的観点から、生じる・滅するという信念が否定されます。時間の観点から、断滅と常住を信じることが否定されます。行為の観点から、来ることと去ることが否定されます。そして名前を与えることに関して、事物が分かたれ、異なるものと思って起こしている執着が否定されます。ナーガールジュナは “最もすぐれた説法者である仏陀に礼拝します” と明言されており、私はこれらの重要な偈頌を頻繁に考察しています」
続いて質疑応答に移られた法王は、聴衆の質問に対して、仏教の修行は信仰ではなく智慧に基づいて行われることを明らかにされた。そのような智慧は聞・思・修から生じる。ツォンカパ大師は『私の目的はよく果たされた』の以下の偈でそのことについて要約されている。
法王は、もし個々人が仏法を学び、それについて省察する時間を持てるなら、その人は平穏な生活の基盤を築くことができるだろうと示唆された。そして、仏陀は慈悲の心から、段階を追って進むべき道を示してくださったが、それは科学的アプローチに近いものであると述べられた。
呼吸に対する憶念をもつことを通して、人間の自然な行為に注意を固定する。自分が努力せずに行っていることに注意を向けることで心の訓練がなされる。心が非常に鎮まったならば、心が何であるのか、つまり心とは純粋な意識作用である、という体験が生じる。
チベットの伝統では、ヨーガ行者は心の微細なレベルを認識できるという。彼らは様々な段階の、より粗いレベルの意識が微細な意識へと溶け入って、機能を停止していく過程を認識できるようになる。死の際には粗いレベルの八十の自性を持つ分別の心が溶け入っていくと言われているが、そのうちの33は真白に顕れる心(顕明)、40は真赤に輝く心(増輝)、7つは真黒に近づく心(近得)という各顕現の段階で起こり、最終的に最も微細なレベルの死の光明の心へと溶け入っていくという。熟達したヨーガ行者はこの最後の段階まで微細な意識を保ち続けるという。
別の質問に対して法王は、“シャマタ(一点集中の瞑想:止)” と “ヴィパッサナー(鋭い洞察力:観)” は、瞑想の対象によってではなく、瞑想のやり方によって区別されることを明らかにされた。“シャマタ” は一点に集中することで心を落ち着かせ、“ヴィパッサナー” には、事物を明らかにするために、分析し、よく調べて考えることが含まれる。インドとチベットの伝統では、前者は無分別による等引の瞑想、後者は分析を用いる瞑想として区別されている。この両方の要素が憶念の修行に含まれている。
心の対象となる法念処に関しては、苦諦(苦しみが存在するという真理)の4つの性質(無常・苦・空・無我)に留意する。法王は、ご自身の修行に用いているというナーガールジュナの『宝行王正論』からの2つの偈を引用された。
「私たちは “私の身体”、“私の言葉” などと言って、身体や言葉などに所有者がいるかのように憶測しています。究極的にはそのような所有者である “人” はどこにも見つかりませんが、世俗のレベルにおいて、“あなたや私が存在する”、と言うことはできるでしょう。“人” というのは様々な部分が集まってできたものです。唯識派ではそれは意識の連続体だと言います。中観派は “人” とは単なる名前をつけてそう呼んでいるだけの存在に過ぎないと主張します」
チャンドラキールティ(月称)は『入中論』において、何かを客観的に存在する実体あるものだと仮定した場合に生じる三つの重要な帰結について説いている。
ナーガールジュナはこのことについて『根本中論頌』で明らかにしている。
そして法王は次のように心情を吐露された。
「ナーガールジュナとチャンドラキールティについて話すとき、私はこの導師たちと自分には深い感情的なつながりがあるように感じます。それはあたかも、かつてナーガールジュナがされていた説法を、遥か後ろの隅で拝聴している自分が見えるような感覚です」
ここで司会者が、法王の説法への謝辞を述べ、これは大変示唆に富んだ体験であったと伝えた。そして最後に、スリランカのキャンディにあるアスギリヤ・マハー・ピリウェナ(Asgiriya Maha Piriwena)の管長で、最高位の比丘であるナランパナウェ・アナンダ・ナヤカ・テロ師が閉会の言葉を述べた。
「ここに集った皆さんは、法王の説法から多くの洞察を得ることができました。今日、この『大念処経』は全ての人にとって大変重要な経典になりました。皆さん全員がこの教えを毎日実践するようにお奨めします。パンデミックがまだ収まらない状況下で、この偉大な法話を行なってくださった法王に深謝します。生きとし生けるものが仏陀の教えから祝福を受けますように」
法王はこれに答えて次のように述べられた。
「私たちは皆仏陀の弟子であり、真実の本質についての、諸行無常・一切皆苦・諸法無我という三法印、あるいは涅槃寂静を加えた四法印を奉じています。これは私たち全てに共通した見解です」
聴衆はインターネットを介して、慣習に則り「サードゥ、サードゥ、サードゥ」と随喜の言葉を三回唱えて法話会を締めくくった。
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