インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝、法王は「本日はチベット人の若者たちに向けた法話会の2日目です」と話を始められ、「引き続きツォンカパ大師の自伝『私の目的はよく果たされた』を読み進めます。通常こうした法話会の最後には発菩薩心の偈を唱えますが、今日は『一切ヨーガによる発菩提心』の儀式を執り行おうと思います」と述べられた。
「ヴァスバンドゥ(世親)は、仏陀の教えは、経典に基づく教え(三蔵の修学)と、体験に基づく教え(三学の実践)の二種類があると説かれています。教えを実際に身に着けるには、教えをたくさん聞き(聞)、それについて何度も熟考し(思)、確信を得たことを瞑想を通して心に馴染ませる(修)という実践方法を通して学び、修行する以外に他に方法はないとも述べています。ナーランダー僧院の伝統を引き継ぐ私たちは、シャーンタラクシタ(寂護)が示されたこの実践方法を非常に大切にしています。この伝統の中から多くの偉大な導師や成就者が輩出されました。また、この実践方法はチベット仏教の全学派に共通しています」
「『私の目的はよく果たされた』の中に、“日夜常にそれを修行しそのすべての教えが繁栄するために廻向したことを述べたのがこの第三章である” とあります。ツォンカパ大師は、波羅蜜乗と金剛乗という大乗仏教における二種類の修行道について語られ、“発菩提心” と “空を理解する智慧” は、この二つに共通すると述べています。さらに、秘密集会タントラ(グヒヤサマージャ・タントラ)の生起次第と究竟次第についても言及されています」
「ツォンカパ大師は、四種タントラの解説部分で、無上ヨーガタントラにおいては特に秘密集会タントラに注目されています。ツォンカパ大師は、秘密集会タントラに関する複数の著書を残されており、『五次第灯明』には究竟次第の理論的な要点が、『五次第一座円満』には詳しい実践法が記されています」
『五次第灯明』では、世俗の真理(世俗諦)と究極の真理(勝義諦)という二つの真理(二諦)を幻身と光明に関連づけるという、独特な解説がなされています。昔、慣習に従ってギュト僧院の僧侶たちとイェルパという土地でリトリートをした時のこと、私たちは “幻身は肉体的な身体の外側に生じるのか、それとも内側に生じるのか” という問答をはじめました。すると当時の僧院長ミニャク・ツェテン師は「私が幻身を成就した段階に至ったら、それがどちらなのか体験によってわかるでしょう」とおっしゃいました」
「無上ヨーガタントラの修行においては、死に向かって粗い意識が徐々に機能を停止し、より微細なレベルに溶け込んで行く段階において、三つの現れ、すなわち真白に現れる心(顕明)、真赤に輝く心(増輝)、真黒に近づく心(近得)が順に消滅したあと、死の光明の心が立ち現れ、最も微細な意識、つまりルン(風)に乗った幻のからだ(幻身)が生起します。そして、この最も微細なルン(風)が、幻身の近取因(直接的な原因)となります」
「しかし、三つの現れが完全に浄化されていない状態で生じるのは “不浄な幻身” です。それを光明の心によって浄化していくことで、清浄なる “義の幻身”(本物の幻身)が得られます。修行者は、空性の知的理解を通して得られる “たとえの光明”(疑似体験としての光明)と “不浄の幻身” とを一体化させる瞑想修行を通して、光明と幻身の一体化(双入)を修行レベルで体験します。ツォンカパ大師は、これらの段階をすべて実際に体験なさった上で、その過程を詳細に観察されました。そして、ついに死を迎えられた時には、凡夫の意識が死後に入っていく中有(バルド)へ入ることなく、死に際して立ち現れる “死の光明の心” を用いて、実際に “義の幻身” を成就されました。ですから、『五次第灯明』を読むことは非常に重要です」
「以上が『私の目的はよく果たされた』の第三章の内容です。この自伝には、ツォンカパ大師がどのようにして教えを探求し、学び、実践し、実体験されたのかが明記されています。ところで、私がツォンカパ大師を身近に感じるのは、出身地が同じであることも理由の一つです」
「釈尊は、最も優れた最高の化身(凡夫でも接することのできるお姿で現れた化身)としてこの世に生まれ、涅槃に入られるまでの全人生を通して、仏陀としてのあらゆる行為を示されました。ツォンカパ大師が涅槃に入られた後には、『菩提道次第広論』、『菩提道次第道略論』、ナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論偈』の注釈書である『正理大海』、『五次第灯明』をはじめとする18巻の論書が私たちに残されました」
「ツォンカパ大師は、ナーガールジュナの空の見解を土台にしておられるので、私たちもナーガールジュナの六論書、さらにチャンドラキールティ(月称)によるその注釈書も学ぶ必要があります。ツォンカパ大師も『縁起賛』の中で、チャンドラキールティの注釈書を称賛されています」
「昨日も話しましたが、チャンドラキールティは『入中論』第6章の後半で滅諦(煩悩障と所知障が完全に断滅された仏の境地)について述べておられます」
「私自身も、こうした滅諦の境地に至りたいと日々願っています」
「修行をする目的は、他者の救済です。私たちは他者に奉仕しなくてはなりません。それ故、私は『入菩薩行論』にある次の偈頌を心に深く刻んでいます」
「『菩提道次第広論』の中でツォンカパ大師は、教えが広まることを願って次のように祈願されています」
生きとし生けるものすべてが幸せを望み、苦しみを避けたいと願っていることは、論理的検証をするまでもなく明らかである、と法王は述べられた。人間と動物の違いは、人間には頭脳と知性があり、苦しみをもたらす因は何であり、幸せの因となるのは何であるかを判断できることにある。古代インドから脈々と受け継がれてきた “非暴力” の伝統は、三千年以上にわたって今も息づいており、“非暴力” は慈悲と思いやりに根ざしており、平和と幸福をもたらす。
「釈尊は弟子たちに、“私は解脱への道を示した。その道に従うかどうかは、あなた方の手の中にある” とおっしゃいました。ナーガールジュナは広大なる修行の道と甚深なる智慧の見解を土台とする修行道を示されました。仏陀のお言葉が記された経典、さらにナーガールジュナをはじめとするインドの導師方の論書や注釈書はすべて私たちの母国語であるチベット語で読むことができます。さらに、チベット人の導師方が記された注釈書も多数あります」
「過去には、別の宗派の導師達が、異なる瞑想の本尊を修行しているからといって反目し合うということがありました。さらには、修行の障害を取り除き、魔を調伏するための密教の行法を、反目する宗派の者に害を与える目的で使用した例もあったようです。しかし実際のところ、生きとし生けるものすべての中に、私たちが本気で敵とみなすべき者など、一人もいません」
法王はオンライン上の聴衆に向かって、ご自身の主な修行は、“発菩提心” と “空を理解する智慧” を深めることであると述べられ、「もしあなた方が、私に従おうと思うのであれば、この二つはあなた方にとっても大切なものです」と話された。
次に法王は、『一切ヨーガによる発菩提心』では、最初に世俗のレベルの菩提心を生起し、次に勝義のレベルの菩提心を生起することを伝え、シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』から、他者に奉仕するための資質に関する偈頌を引用された。
菩提心を生起するには、他者を苦しみから救いたい、それを実現するために自分が仏陀の境地を得たいという強い願いがなくてはならない。そのためには、実際に他者を幸福にする努力と自分が仏陀になる努力を最大限に行わなくてはならない。
次に法王は、深遠なる空の見解について語られた。私たちには “私” という自我の感覚があるが、その実体を探してみたところで、どこにもそれを見つけることはできないと繰り返し述べられた。さらに『根本中論頌』の次の偈頌の「如来」という言葉を「私」に置き換えて考えるようにと言われた。
“私” は確かに存在するが、これが “私” であると指さして示せるような実体はどこにも見い出すことはできない。“私” も “私の意識と身体の集合体(五蘊)” も、他に依存せずに自らの力で成立しうる実体を持った存在ではないのである。
ここで法王は、次のようにして『一切ヨーガによる発菩提心』の観想を行う、と聴衆に向かって述べられた。まず、世俗のレベルの菩提心、すなわち他者を苦しみから救うために自分が悟りに至ろうという決意を心に強く起こしたならば、世俗のレベルの菩提心が自分の胸の位置で光輝く月輪になったと観想してください。次に、究極のレベルの菩提心、すなわち空が、白い五鈷杵となって月輪の上に立っていると観想してください。さらに、上師(ラマ)の胸にも同様の月輪と五鈷杵があり、そこから小さな月輪と五鈷杵が生じて自分の胸の月輪と五鈷杵に溶け込んだと観想してください。
ここで法王は質疑応答のセッションに入られた。チベット人学生の質問に答えて法王は、他者が悪しき行いをしている時は、その人を慈悲の心で見るようにしなさいとアドバイスされた。さらに「自分に害をなすものは最上の師である」というシャーンティデーヴァの偈頌を引用された。
続いて法王は、カルマに関する質問に対して次のように述べられた。今体験している苦しみや幸福は、以前になした行為の結果であると私は考えている。時折、困難に直面しても「これは自分のカルマだから仕方ないさ」と肩をすくめて何もしない人がいるが、私たちチベット人が祖国を失った時、私たちは “カルマだから仕方ない” などと言って諦めたりはせず、全力を尽くして自分たちのアイデンティティと文化を守り継承してきたことを語られた。
法王は、「怒りをコントロールするには、怒りや憎しみの過失と、慈悲や菩提心の利点について考えると役に立ちます」とアドバイスをされた。私自身の経験では、思いやりや慈悲の瞑想をすると心が平和になります。みなさんも、その成果を私の笑顔の中に見ることができるのではないでしょうか。怒りに打ち負かされてしまうと、他者のことも自分のことも助けられなくなってしまいます」
次に法王は、事物には実体性がないことを意味する空や縁起を理解するにはどうすればよいか、という女学生の質問に答えて、先ほど述べた “鏡に映る姿” という例は、粗いレベルの空の見解である。私たちが日常の世界でかかわっている、実体を伴って存在しているかのように見える事物についてよく観察するとよいであろうと提案された。さらに、空の見解は、仏教の哲学学派によってその深遠さに差があるとも述べられた。
中観帰謬論証派は、いかなる事物であっても、それ自体の側から存在している実体など何一つ存在しないという見解を主張している。事物はすべて、単に私たちの概念作用によって成立しているに過ぎない。同じく、縁起にも、粗いレベルから微細なレベルまで様々なレベルがあると述べられた。
ツォンカパ大師が『中観密意解明』の中で『入中論』の三偈(34偈、35偈、36偈)について述べられておられる部分にも、次のように記されている。もし事物に実体があると主張するならば、論理的誤謬が生じる。すなわち、
(1)聖者の等引は事物を破壊する
(2)世俗の真理は論理的な分析に耐えうる
(3)勝義における成立もまた否定できないことになる
(4)一切の現象の事象は空であると言われているのは正しくない
という四つの誤謬に陥ってしまうのである。
法王は、現れによって実在論を滅し、空を理解することによって虚無論を滅することができると述べられた。さらに、縁起の見解をよく理解できたなら、空を悟ることができるだろうとアドバイスされた。しかし、事物の究極のありように関する洞察を獲得するには、膨大な功徳と智慧を積まなくてはならない。
次に、大いなる慈悲の心(大悲)と菩提心の違いは何か、という質問に対して法王は、大いなる慈悲の心とは、有情が苦しみから自由になりますようにと願うだけでなく、自分が有情を苦しみから救済しようと決意する心のことである、と言われた。そして、自分には他者を救済する能力がないと気づいた時、他者を真の意味で助けることのできるのは仏陀だけなのだから、自分が仏陀の境地に到達して他者を救済しようという決意の心、すなわち菩提心が生じるのである。
続いて法王は、菩提心を生起するための2種類の修行法、“因と果の七つの教え” と “自分と他者を平等に見なし、その立場を入れ替える修行” について語られ、後者のほうがより効果的であり、シャーンティデーヴァの『入菩提行論』にも詳細に解説されていると述べられた。発菩提心は、自分と他者の利益を円満するための最善の方法である。『ラマ・チューパ(上師供養)』には、次のように記されている。
シャーンティデーヴァは次のように述べられている。
続いて質問者がうつ病に苦しむ人々の治療に関するアドバイスを求めると、法王は、自分の問題ばかりに目が向いて視野が狭くなってしまうとうつ病になりやすい傾向がある。そうした精神の落ち込みを払拭するには、他者に心を開いて気持ちをゆったりとさせ、自分よりも他者の利益に意識を向けるのが良い方法であると述べられた。
最後に、今回の2日間の法話会の運営委員会の委員の一人が、法王が今回の法話会を開催してくださったこと、さらに長年にわたって教えを説きつづけてくださっていることへの深い感謝を述べ、法王の長寿と健康を祈願した。
これに答えて法王は、「すでに何度も申し上げましたが、最も大切なことは、教えを聞き、学び、実践することです。幅広く学び、学んだ内容を自分の心に馴染ませてください。仏教においては、根拠もなく単に信じるということをせず、学びを通して正しい理解を育むことが重要です。すでに述べたように、シャーンティデーヴァの『入菩提行論』とチャンドラキールティの『入中論』を読むことをお勧めします。読んだ内容について、互いに議論したり問答するのも大いに助けになるでしょう」
「ありがとうございました」
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