インド、ビハール州ブッダガヤ
数日間にわたって北インド全体が霧に覆われ寒い日々が続いたが、今朝は天気の回復の兆しも見えはじめ、ダライ・ラマ法王はガンデン・ペルゲ・リン(ナムギャル僧院)から徒歩で会場となるカーラチャクラ・グラウンドに向かわれた。
カーラチャクラ・グラウンドは、チベット人の僧、尼僧、一般人、ヒマラヤ地域からの参加者、世界67カ国からの約2,500人の参加者など、3万5千人を超える聴衆で埋め尽くされた。法王は微笑んで手を振りながらステージへと向かわれ、途中、一人でも多くの聴衆が法王と握手できるように手を差し伸べ、またステージの上からは、遠くの席の聴衆に手を振られた。
法座の周囲には高僧方が座られており、法王はその中のサキャ派座主、ガンデン僧院座主、ガンデン僧院前座主のリゾン・リンポチェ、トゥヴァ共和国の新しい僧院長に挨拶をされた。
法王が着座されると、ブッダガヤ寺院運営委員会のメンバーであるインド人とスリランカ人の僧侶8名が『吉祥経(マンガラスートラ)』をパーリ語で唱え始めた。続いて、ルート・インスティチュート(Root Institute)と提携運営されている地元ブッダガヤのマイトレーヤ・スクールの生徒達11人が『般若心経』を美しい響きのサンスクリット語で唱えた。最後に、漢民族の僧侶、尼僧一人、在家信者らが中国語で大本『般若心経』を唱えた。
法王は法話に先立ち、ナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論頌』の最後の偈を唱えられた。
そして法王は、『般若心経』の開経偈に続いて『現観荘厳論』の帰敬偈を唱えられた。
法王は次のようにお話を始められた。
「仏陀は成道の後、サルナートにおいて最初の説法をされ(初転法輪)、仏教の基礎である “四つの聖なる真理(四聖諦)“ と戒律について説かれました。波羅提木叉の戒律の内容は地域によって微妙に異なり、チベットではナーガールジュナから伝わる根本説一切有部律の伝統に従っています。これはパーリ語の伝統に従う上座部仏教の国々のものと大変近いものです」
「その後、仏陀は霊鷲山(ラージギール)の山頂で、清らかなカルマを持つ弟子たちを対象として般若波羅蜜(智慧の完成)の教えを説かれました。やがて仏陀の教えはインドからアジア全土へと広まり、今日では西洋の科学者や教養のある人々が、仏陀の教え、特に心と感情の働きについて関心を示しています。仏陀の教えは、それが解脱、前世や来世といったテーマであっても、論理と根拠によって検証することができます」
「仏陀は “四つの聖なる真理(四聖諦)” の解説の中で、輪廻がもたらす過失と解脱に至ることで得られる利益について説かれました。煩悩には固有の実体がないので、煩悩を滅することは可能です。そのためには、“世俗の真理(世俗諦)” と “究極の真理(勝義諦)” という “二つの真理(二諦)” を理解することから始める必要があります」
「仏陀は成道された後、次のように言われました。“甚深にして寂静で、戯論から離れており、無為である光明、そのような甘露の如きダルマ(仏法)を私は発見した。しかし、この法は誰に説いても理解できないだろう。それゆえ、私はこの森にとどまって沈黙を守ろう” と」
「この中の “甚深にして寂静” とは初転法輪の内容を指していると考えられます。“戯論から離れており” とは、第二法輪で説かれた内容、すなわち般若波羅蜜(完成された智慧)とそれを認識する光明の心を指していると理解することができます。“無為である光明” とは、無上ヨーガタントラで説かれている原初から存在する最も微細な意識、つまり、対象物を知ることのできる光り輝く光明の心のことだと考えられます。これが仏性と言われるものであり、この最も微細な意識こそが悟りの境地に至るものなのです」
「私たちは、仏陀が加持の力で私たちの汚れを取り除いてくださると思いがちですが、実際にはそうではありません。すべての生き物が同じように苦しみを望まず、幸せを求めています。人間にはすぐれた知性が備わっているのでその望みを実現するチャンスがありますが、他の動物たちは人間のような知性を持たないため、そのチャンスがありません。無数の生き物たちが五感を通して生じる感覚的な経験を土台として満足を得ようとするのに対し、私たち人間は、純粋な意識作用によって心をよりよく変容させることもできるのです」
「苦しみは自らのかき乱された心から生じます。漢民族の方々は『般若心経』の末尾に、三毒(執着、怒り、無知)の消除を願う偈頌『四弘請願』を付け加えて唱えられました」
「自分自身の解脱のみを目的とする声聞・独覚の修行者たちも、事物の究極のありようを正しく見る智慧(無漏の智慧)を得るために修行をしています。しかし、その智慧が慈悲や菩提心と結びついた時、有情利益を成就するために仏陀の境地に至ることを願って菩薩道の実践に入ることになります。この偈頌は、“障りを取り除き、菩薩道を実践できますように” と祈願しているのです」
「ナーガールジュナは、“行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕。行為と煩悩は妄分別(誤った認識)から生じる。それらの妄分別は戯論から生じる。戯論は空によって滅せられる” と説かれました。この偈頌は、私達が事物のありようを誤って解釈し、それを誇張して捉えてしまうため、執着、怒り、無知が生じる、と説いておられます。私たちは、一切の事物はその現れ通りに、それ自体の側から実体を持って存在していると誤解しているのです。だからこそ、仏陀は空について説かれたのです」
法王は、「色即是空、空即是色」とは、物質的存在は、存在はしているが私たちが捉えているように実体をもって存在しているのではない、と説いていることを述べられた。物質的存在には自性による成立がない。また、心は一刹那ごとの意識の連続体によって成立しているため、心もまた実体性を欠いている。私達が現実のありようを誤って理解しているが故に、煩悩が生じるのである。『般若心経』に説かれている「色即是空、空即是色」とは、色(物質的存在)と空は一つの本質のものの異なる側面を表しているのだということを説かれている。
物質的存在は、他のものに依存せずに存在することはできない。つまりそれ自体の側からの固有の実体がないので、空の本質を持つものなのである。ブッタパーリタ(仏護)は、「もし物質的存在にそれ自体の自性があるとしたら、縁起について説く必要がどこにあるだろうか」と問うている。『般若心経』はさらに、「空即是色」、つまり空は物質的存在に他ならない、と説く。すなわち、空であるからこそ物質的存在が成り立つのである。
次に法王は、『般若心経』の真言に暗示されている悟りに至る五つの道の意味について解説された。また、心の本質は原初から存在する光り輝く光明の心であり、煩悩は一時的な汚れに過ぎないので、対策を講じて煩悩を断滅するならば、仏陀の境地に至ることは可能である、と述べられた。
法王は、人間は心の底から幸福を願っているにもかかわらず問題を引き寄せてしまう、と述べられ、シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』から次の偈頌を引用された。
次に法王は、民主主義は良い政治システムであるが、それに賛同する人々が利己的である場合、平和や幸福をもたらすことはできない、と話された。そうしたケースでは往々にして、せっかくの人間の知性が社会全体の利益に貢献することなく誤用されている。科学者は、人間は社会を形成し、他者に依存しながら生きる類の動物であり、慈悲の心は人間の生れながらの性質であると述べている。
法王は、「チベットに仏教を確立し、普及されたのは、シャーンタラクシタ(寂護)とカマラシーラ (蓮華戒)でした」と述べられ、次のように語られた。
「私たちチベット人は、勉強し修行することによって、この伝統を千年以上にわたり生きた伝統として継承してきました。『現観荘厳論』等の偉大な論書を暗誦し、ハリバドラ(獅子賢)の『現観荘厳論小註』等の注釈書やチベットで記された注釈書を拠り所としてきました。また、今朝、私が会場に来る前に僧侶達が行っていたように、理解した内容を問答によって討論し、知性に磨きをかけています。私たちチベットの伝統では、論理的な考え方に基づいて考えるということが非常に重要です」
「ツォンカパ大師は、包括的かつ徹底的に勉強することが大事だと述べておられます。教えを聞いて勉強し(聞)、聞いた内容を何度も分析し(思)、それによって理解したことを瞑想によって心に馴染ませていくこと(修)が重要だと強調されています。また、密教の修行に入る前に、一般的な教えの全体像について正しく理解しておくべきだと勧められています」
続いて法王は、『三十七の菩薩の実践』のテキストを手に取られ、解説を始められた。著者のトクメ・サンポは人々から菩薩として敬われ「ギャルセ(仏陀の息子、菩薩)」と呼ばれており、まず最初に、世自在観音(ローケーシュヴァラ)への礼拝の言葉を述べている。法王は、世自在観音は、すべての現象には自性がなく、故に、来ることも去ることもないとご覧になった上で有情救済のために働いておられる、と述べられた。そしてこの礼讃偈を、八つの極端論を離れた縁起を説くナーガールジュナの『中論』冒頭にある仏陀への礼讃偈と比較しながら解説された。
テキストは、最終的に私たちは自分の身体さえ捨ててこの世を去らねばならないという事実を明言している。そして、悪い友を捨て、聖なる善友(師)を慈しむべきである、と続く。法王は、「師として他者のかき乱された心を鎮めたいと願うなら、まず自らの心を鎮めなくてはならない」というツォンカパ大師のことばを称賛され、師となるためには、戒律の遵守(戒)、瞑想修行(定)、正しい智慧(慧)という三学の修行に基づく十分な資格を備えていなくてはならない、と述べられた。
第8偈は、明らかな苦しみ、つまり「苦痛に基づく苦しみ(苦苦)」の断滅を願う初級者に対する教えである。第9偈は、私たちが幸せだと思っていることも、究極的には苦しみに変化してしまうという「変化に基づく苦しみ(行苦)」であることを説いており、これは中級者に対する教えとなっている。
輪廻の根本を断つためには、無知を克服しなくてはならず、それには究極の真理に対する洞察を育まねばならない。仏陀は、六道輪廻図を描くよう委託されたと言われており、それによって十二縁起を説いたと言われる。そこでは、第一の事象である根源的無知(無明)から行為(行)が生じ、それから意識が生じ(識)、最後は老化と死に至り、また根源的無知(無明)に戻る。この十二の事象の輪は、無明を克服することができれば、それに続く事象が生じることはない。そこに至るためには、現実のありように関する誤った認識を断ち切らなくてはならない。
第10偈は上級者の段階の修行を説いている。優れた知性の修行者であれば、三宝への帰依を基礎として、菩提心を起こすこと(発菩提心)ができる。法王ご自身は、これを毎朝欠かさず起床時に行っていると述べられた。
「自分の立場と他者の立場を入れ換え、自分より他者を大切にするならば、あらゆるものごとを肯定的に捉えられるようになります。健康になり、長寿を得て、多くの友が集まってきます」
「クヌ・ラマ・リンポチェが私に第12偈の泥棒のくだりを説かれた時、次のような話をしてくださいました。トクメ・サンポは泥棒に入られ持ち物すべてを奪われた時、泥棒に向かって、そちらの方角に逃げると、あなたが今私から奪ったものを私に布施してくれた人たちと出くわすでしょう。面倒なことになりますから別の方角にお逃げなさい、とおっしゃったそうです」
続いてこのテキストは、他者の罪悪を自分が引き受け、敵を誰よりも尊い師として敬いなさい、自分は偉大だと自惚れることは障りであり、自分の心をよく制御して空性について瞑想するべきである」と説いている。法王は、これに関連してナーガールジュナの『中論』から以下の偈頌を引用された。
法王は、この偈頌は、「如来」を「私」に置き換えて考えるとよい、と述べられた。さらに、ご自身が本尊ヨーガの修行をする時は、この偈頌の「如来」を15方位の守護尊と考えることにより空の修行をしている、と述べられた。
第25偈~第29偈は六波羅蜜の中の布施、持戒、忍辱、精進、禅定の5つの波羅蜜つについて説いている。第30偈と第31偈は、これら5つの波羅蜜は、智慧によって補われることで完成すると説く。
最後にテキストは、自分の心の状態によく注意し、煩悩が生じるやいなや、すぐさま滅すること、そして自分が得た功徳は、一切有情が菩提を得るための因として廻向すべきであると説く。テキストの最終偈は、著者の謙虚な姿勢をあらわすとともに、このテキストによって生じた善を、一切有情が究極と世俗の菩提心によって世自在観音の境地に至ることができますように、と廻向して締めくくられている。
法王は、明日は、偉大なる慈悲の顕現である観音菩薩の灌頂を授与し、その中で発菩提心の儀式を行うと述べ、ガンデン・ペルゲ・リンへと戻られた。