インド、カルナータカ州ムンゴット
今朝、ダライ・ラマ法王はデプン僧院ゴマン学堂に新設された問答広場に車で向かわれた。ロブサン・ギャルツェン僧院長の出迎えを受けたあと、法王は、扉の前で新施設の落成を象徴するリボン・カットをされた。そして、尖った黄色い帽子をかぶった僧侶たちに先導され、頭上には日傘を掲げられながら、問答広場の中央通路を列になって正面奥のステージへと進まれた。
ステージ上ではデプン僧院僧院長、前僧院長、デプン僧院ゴマン学堂の高僧の転生者たちが法王を温かく迎えた。法王もそれに答えてガンデン座主、前ガンデン座主、シャルツェ法主、ジャンツェ法主に挨拶し、西洋の仏教学者やエモリー大学の科学者達に会釈された。その後、法王は釈迦牟尼像や仏画に礼拝され、灯明を供養されたあと、ゆったりと法座に着かれた。
経頭のよく響く低い声に先導されて吉祥の祈願文が唱えられ、参加者全員にお茶とデシ(甘く味付けしたお祝いのご飯)が振舞われた。僧院長は、法王にマンダラと仏陀の身・口・意の象徴を供養し、その後、新施設の主な経済的支援者を法王に紹介した。
新しい問答広場は、両脇に建物のある開放的な空間で、鉄骨構造の梁の上に軽量素材の膜屋根を張ることで、柱のない大空間を実現している。今日はこの問答広場を、定員の1万5千人の聴衆 ― 大多数は僧侶と尼僧、一般チベット人、海外からの友人や支援者らが埋め尽くした。
開会の挨拶の中で、僧院長はダライ・ラマ法王を生きとし生けるものの友人にたとえ、法王が落成式の導師をつとめてくださったことに感謝を述べた。さらに、新しい問答広場について短く解説し、その中でチベットのデプン僧院の設立者ジャムヤン・チュージェ・タシ・パルデンとゴマン学堂の創設者ドゥルン・ダクパ・リンチェンについても言及した。1959年以降にチベットから亡命してきた僧侶たちはバクサドールに集まり、学問を再開した。その後1969年にムンゴットに移住し、僧院の再建に着手したときの僧侶の数は60人であった。
その後、ラダック、アルナーチャル・プラデーシュ州のモン地方やその他のヒマラヤ地域から徐々に僧侶がやってくるようになり、僧侶数は総勢300人程となった。1982年以降はチベット本土から僧侶たちがくるようになり、僧侶の数は飛躍的に増大した。1990年代に入るとモンゴル国やロシア連邦国内の共和国であるブリヤート、カルムイク、トゥヴァといった地域からもやってくるようになった。1995年までにゴマン学堂の僧侶数は1,000人となり、今日では2,000人を数える。
そこで、大勢の僧侶が問答をすることのできる施設が必要になり、また、以前の問答広場は音の反響が大きく問答に支障が生じていたこと、雨季には雨漏りがひどかったこと等が理由となって、僧院が新しい問答広場を建設することが決まった。問答広場に隣接する二つの建物には、教員室、教室、化学実験室、会議室などがある。
僧院長は、再建されたゴマン学堂で11人の候補者がゲシェ・ラランパ(最高位の仏教博士号)の試験を最初に受けたことを喜びをもって報告し、さらに150人の候補者が試験の順番が来るのを待っていることを述べた。また、ゴマン学堂では、チベット語や中国語に興味のある人々に、語学の授業も提供している他、ゲシェ(仏教博士号)の資格を持つ僧侶向けの密教コースもあると述べた。
僧院長は、この役職に就いてからの4年間、自分は僧院再建プロジェクトに全力を注いできたが、僧侶達もまた、この事業に非常に積極的にかかわってきたと述べた。僧侶たちは工事の監督をする一方で、自分の学業もたゆみなく続けてきたのである。
僧院長は、ツォンカパ大師の偈頌を引用して、報告を締めくくった。
続いて、エモリー・チベット・サイエンス・イニシアティブ(ETSI)の6年間の導入期間の終了を祝う短い式典が行われた。所長のロブサン・テンジン・ネギ博士は、この機会を与えてくれた法王と要人方に感謝を述べた。また、法王が2006年に米国ジョージア州のエモリー大学との協働関係を築かれ、エモリー大学とパートナーシップを築くことを奨励されたことがエモリー・チベット・サイエンス・イニシアティブの設立につながり、チベット文献図書館(Library of Tibetan Works and Archives:TLWA)もその一部となった、と述べた。
副所長のツェテン・ドルカー博士は、6年間のプログラム、一ヶ月間の夏期プログラム、テンジン・ギャツォ・サイエンス・スカラーシップの成果を紹介した。6年間のプログラムにおいて、毎年、チベット語と英語で記された生物学、物理学、化学、神経科学の教本が作成されたことが伝えられると、教本制作に係わった人々が法王にその教本を捧げた。また、ゲシェ・ダムドゥル・ナムギャル師は、科学者のための辞書を制作した。
ドルカー博士は聴衆に向かって、1,000人以上の僧侶がすでにプログラムの第一段階を終了し、さらに現在40人の尼僧がプログラムの最初の3年間を終了したと述べた。また、テンジン・ギャツォ・スカラーシップ・プログラムは、さらに大学レベルの科学分野における研修を提供することによってチベット人の僧院教育、科学の教師の育成を目指すもので、一年おきに様々な僧院から6人の僧侶が選ばれ、エモリー大学で4学期間の研修を受ける。現在までに、4グループが選抜され訓練を受けている。
ETSIの生物学学部主任のアリ・アイゼン博士は、このプログラムと自分の係わりを短く述べ、チベット人僧侶達とエモリー大学の学生達との熱心な交流を目にした思い出を語った。また、ここムンゴットの新しい科学センターへ向かう僧侶の行列を目にした時の感動についても語った。
ETSIの神経科学学部主任のキャロル・ワースマン博士は、科学は物質的な現象を研究し、仏教は理論と根拠に基づいて心に焦点を当てる。この二分野を同時に研究することは、生きとし生けるものすべての繁栄に貢献すると確信していると述べた。また、法王のヴィジョン、ならびに法王がプログラムに係わる全員を激励し鼓舞されたことに感謝を述べた。
チベット文献図書館の館長、ゲシェ・ラクドル師は、ヴィジョンというテーマで図書館とエモリー大学との協働作業について語った。彼は、この困難な大事業に取り組んだ関係者全員を称賛した。法王の四つの使命についての一般的な理解を得ることが、法王の科学に対するヴィジョンを知る上で助けになるだろうと述べ、法王の長寿を祈願した。
法王は、スピーチの冒頭で、過去の僧院長や僧侶達が科学の価値について懐疑的であったことを認めた。
「しかし、仏陀が第二法輪で説かれた内容の核心は般若波羅蜜(智慧の完成)であり、そこには科学と論理が含まれています。西洋では、科学は物質的現象に焦点を当てます。これと同様に、仏教においては、目で見ることのできる明らかな現象であれば実体験に基づく立証によって理解し、やや隠されたレベルの現象については論証に基づいて理解します」
「科学は、外的世界について学んだことを踏まえつつ、主観的な内面の世界にも目を向けるべきです。この外界と内なる世界という二つの源から得られる知識を統合できると良いと思います。そうすれば、さらに完全な教育となるでしょう」
「私たちは、チベット語のカンギュル(経典)とテンギュル(論書)の内容を、心の科学、哲学的見解、宗教の実践という三つに分類し、それを編集して別々の本にまとめました。宗教に関する内容に興味をもつのは仏教徒だけかもしれませんが、心の科学、哲学的見解に関しては、宗教に触れることなく学術的に検証することができます」
法王は、『ナーランダー僧院の17人の成就者たちへの礼賛偈』を快活に読み上げられた。第1偈は仏陀への礼賛、第2偈と第3偈は、それぞれナーランダー僧院の偉大な導師ナーガールジュナ(龍樹)とアーリヤデーヴァ(聖提婆)への礼賛である。仏教に論理的帰結による分析法を導入したブッダパーリタ(仏護)は、「すべての現象に、それ自体の側から独立して存在する実体があるとしたら、因果の法則を説く必要がなくなってしまう」と記している。
バーヴァヴィヴェーカ(清弁)の言葉は鋭く、彼はアサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)がナーガールジュナの見解をないがしろにしたと批判した。チャンドラキールティ(月称)は、現れと空は、実在論と虚無論という二つの極端(二辺)を取り除くと主張した。
シャーンティデーヴァ(寂天)は、菩提心の解説として『入菩薩行論』を記した。かつてクヌ・ラマ・リンポチェ、テンジン・ギャルツェン師は法王に、『入菩薩行論』よりも卓越した注釈書は他に見たことがないと語られたという。第6章は忍耐について解説しており、怒りへの対処法が提示されている。第8章は利他の心の育み方について記されている。
シャーンタラクシタ(寂護)は、8世紀にチベットの仏教王によって招聘され、サムイェー僧院を設立し、翻訳部門などを設けた。彼はチベットの王に、王が率先して仏典をチベット語に翻訳する事業に取り組むよう奨励した。シャーンタラクシタの弟子であったカマラシーラ(蓮華戒)は、無分別の瞑想だけで悟りを得ると主張する人々と論争をするためチベットに招かれた。
アサンガ(無著)は、般若波羅蜜の隠された意味を記録し、弥勒の五部論として書き記す責務を果たした。この中には『現観荘厳論』も含まれる。
ディグナーガ(陳那)とダルマキールティ(法称)は、卓越した論理学の師であった。ヴィムクティセーナ(解脱軍)とハリバドラ(獅子賢)は、『現観荘厳論』に関する明快な注釈書を記した。特にハリバドラの『現観荘厳論小註』は、インドで記された『現観荘厳論』の注釈書の中で最上のものである。
「ヒマラヤ山脈の背後に住んでいた頃、私達の地平線が地元の市場の外へ広がることはありませんでした。しかし、亡命に追い込まれたことにより、不幸中の幸いとでも言うべきか、全世界とつながることができました。チベット仏教は “ラマ教“ と呼ばれて退けられることもなくなり、ナーランダー僧院の伝統の継承者として受け入れられるようになりました。世界の広い地域でチベット文化に対する関心が高まっていることは、チベット本土の人々にとって希望と励みの源泉となっています。チベットの精神は不屈です。すでに160人以上のチベット人が焼身自殺をし、自分の命を犠牲にして抗議しました。しかし彼らは、他者を害する行いはしていません」
グナプラパ(徳光)とシャーキャプラパ(釈迦光)は、僧院の戒律に関する偉大な導師です。最後にアティーシャがチベットを訪れ、仏陀の教えの勉学と修行を復興されました。
最後の偈は、「土台のありようを説く “二つの真理”(二諦)の意味を知ることにより、いかに輪廻に生を受け、そこから解脱できるのかを ”四つの真理”(四諦)によってあるがままに理解することができる。正しい認識の根拠に基づいて生じた三宝に対する帰依と信心を堅固にし、解脱への道の源を築くことができるよう加持を与えてください」と説いている。
次に、法王は、チャンキャ・ロルペー・ドルジェ(1717 - 1786)による短いテキスト『母を認識する』を読み上げられた。テンパ・テンジン師はこのテキストにおおいに魅了され、自らこの論書の注釈書を記して法王に捧げたと法王は語られた。この短いテキストは、すべての現象がどのように他の原因や条件に依存して存在しているかを解説したものである。すべての現象が他のものに依存しているからこそ、解脱は可能なのである。
法王は、テキストを読み上げながら、ツォンカパ大師の人生について語られた。大師の最初の師であった法主ドゥンドゥプ・リンチェン師は『中論』に関する解説書の数々を学ぶことを勧められ、大師は中央チベットにおいてそれらを学び、試験を受けられた。ツォンカパ大師は文殊菩薩のビジョンを得て質問をしたが、短い返答の意味が理解できなかった。すると文殊菩薩は、功徳を積み、悪業を浄化するようにと勧めた。ツォンカパ大師は隠遁修行に入り、その期間中に、ナーガールジュナとその弟子達の夢をご覧になった。
夢の中でその中の一人が、テキストを持ってツォンカパ大師の頭に触れた。翌朝、大師はそれがブッダパーリタであったことに気づき、さらにそのテキストを開いて、「もし五蘊が自我ならば、〔自我は〕生成と消滅のあるものとなる。もし〔自我が〕五蘊以外のものならば、五蘊の特徴(相)を持たないことになる」という箇所を読んだ時、大師の中で空についての分析が完成し、究極の確信が得られたと言われている。それが元となって大師は『縁起賛』を記された。法王は、このテキストは、学び、唱え、かつ熟考すべき書であると説かれた。
チャンキャ・ロルペー・ドルジェ師のテキストの奥付には、このテキストが五台山で記されたと書かれている。
法王は、ゴマン学堂にモンゴル人の大きなコミュニティーがあることに触れられた。デプン僧院ゴマン学堂は古来よりモンゴル民族との深いかかわりがあり、1959年時点で100人のモンゴル人僧侶が在籍していた。チベット仏教は、ドゴン・チョギャル・パクパ師とともにモンゴルへ旅し、その後ダライ・ラマ三世ソナム・ギャツォ師によってモンゴルへと伝わった。20世紀の革命において、数百人のモンゴル人僧侶が殺害されたが、モンゴルが独立を取り戻した後、事態は好転している。
ゲシェ・ロブサン・ゲレク師が、来賓の方々、ならびに新しい問答広場の完成に係わった人々全員に感謝を述べた。最後に彼は、法王の長寿祈願を唱え、この祈りが叶うことと、チベット問題が解決することを祈って会を締めくくった。