インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
法話会の冒頭で、まずタイの僧侶たちが「最高の加持とは何か」という質問に対して釈尊が説かれた経典である『吉祥経(マンガラスートラ)』をパーリ語で誦経した。続いて法座の前に進み出た韓国の尼僧のグループが、韓国語で『般若心経』の読経を先導し、堂内前方の数列を占めている韓国の尼僧たちがそれに唱和した。
法王は次のようにお話を始められた。
「今日は韓国の兄弟姉妹の皆さんが主催する法話会の2日目です。仏教はアジア大陸のほとんどの地域に広まりましたので、私たちにとって仏教は新しい教義ではありません。仏教では論理と根拠に基づいて心をよりよく変容させることを目的としていますが、以前は勉学にあまり重きが置かれていませんでした。そこで最近私は、21世紀の仏教徒になるためには、仏教哲学を学び、釈尊が何を説かれたのかを理解しなくていけない、と助言しています」
「初転法輪で、釈尊は四聖諦(苦・集・滅・道という四つの聖なる真理)とその十六の特徴について説かれました。そして、私たちはこの教えに基づいて帰依に導かれるわけですが、帰依の対象である三宝(仏陀・仏法・僧伽)の中で、実際に私たちが帰依するのは仏陀ではなく、仏法であることを理解しなくてはいけません。仏法には経典の教えと体験に基づく教えがあり、そこには滅諦(苦しみの止滅の境地が存在するという真理)と道諦(苦しみの止滅に至る修行道が存在するという真理)が含まれています。滅諦の境地に至るためには苦しみの本質と無我を悟らなければなりません。そして第二法輪では、般若波羅蜜(完成された智慧)の教えが説かれています」
「第三法輪には唯識派の典拠である『解深密経字』が含まれています。唯識派は意識以外の存在を否定しますが、意識には実体があると主張しています。これに対して中観派は、外的現象だけではなく、内なる意識もまた固有の実体を持たず、他のものに依存せずに独自の力で存在しているわけではないと主張しています。中観派にとって、事物は単に名前をつけられたことによって仮に設けられた存在に過ぎません」
「昨日お話しした通り、『般若心経』の最初の部分には、“五蘊もまた、その自性による成立がない空の本質をもつものである” と記されています。しかし、この五蘊 “もまた” という言葉は漢訳には含まれておらず、漢訳を元に訳された韓国語版や日本語版にも “もまた” に当たる言葉は入っていません。そこで私は原本であるサンスクリット語版ではどうなっているかを調べてみましたが、サンスクリット語版には、確かに “もまた” という記載があることが分かりました。この言葉の意味するところは、人我だけではなく、人我の基盤となる五蘊をはじめすべての現象にも実体がなく、空であるということが説かれているのであり、人無我のみならず、法無我をも説かれているということが暗に述べられているのです」
続いて法王は、「色即是空、空即是色、色不異空、空不異色」という甚深四句の法門について説明された。この句の意味は、色、つまり物質的存在は全く存在しないということではなく、それ自体の側からの実体を持って成立しているのではないということである。様々な要素が寄り集まって物質的存在が構成されており、色、形などいくつかの構成要素の集まりに対して単なる名前がつけられているに過ぎない。ゆえに、物質的存在は世俗のレベルで確かに存在しているけれども、他のものに依存せず、それ自体の力で独立して存在しているわけではない。「色即是空」とは虚無を意味するのではなく、物質的存在には本質的な実体がないということを示しているのである。
ナーガールジュナ(龍樹)は『根本中論頌』のなかで次のように記されている。
法王は、量子物理学では心や意識についてほとんど言及していないが、観察者がいてはじめて観察の対象が存在するという主張は、唯識派の立場と類似した視点であると述べられた。
「世俗の真理」と「究極の真理」という「二つの真理(二諦)」は、概念的には異なるものであるが、あたかもコインの表と裏のように、一つの真実の別の側面を表している。対象物がなければ、空であるものは何もない。対象物が空の基盤なのである。甚深四句の法門は、色(物質的存在)と空は概念的には別のものであるが、その本質は同じであることを示している。これはまた、五蘊(身体と心の構成要素の集まり)のなかの色薀だけでなく、受薀、想薀などにも当てはまる。
次に法王は『般若心経』の真言の意味について明らかにされた。
「このように言われている最初の “ガテー・ガテー(行け、行け)” とは、資糧道に行け、加行道に行け、という意味であり、加行道に至って、直観で空を見抜いた時点で入る見道の修行に向けて準備せよ、ということであり、“パーラガテー(彼岸に行け)” とは、見道に入って菩薩の初地の段階に至れ、と述べられているのです。さらに、“パーラサムガテー(彼岸に正しく行け)” とは、修道に至って菩薩の初地に続く第二地から第十地の段階を進めという意味です。そして、“ボーディスヴァーハー(悟りを成就せよ)” とは、無学道(これ以上学ぶことのない段階)に至って無上の悟りを成就せよ、ということを意味しています」
「『般若心経』で明らかに述べられているように、現在・過去・未来の三世のすべての仏陀たちは、般若波羅蜜を拠りどころとして、無上正等覚(無上の完全なる悟り)を達成して仏陀となられたのです」
法王は、『般若心経』とその後に続く、障礙(障り)と妨げをもたらす力の除去に有益な偈頌を唱える習慣について言及された。しかし、経典の意味を理解せずにただ唱えるだけで効果があるかどうかは疑問であると述べられた。いずれにせよ、一番大きな障礙は自分の心の中にあるのだから、それを克服するためには勉強と修行が欠かせない、と指摘された。
その後、『修行道の三要素』のテキストを読まれる前に、法王はツォンカパ大師の系譜への祈願文を読み上げられた。祈願文は、翻訳官に対する恭敬の偈で始まり、次にレンダワとレンダワの空の理解について、彼の智慧は虚空と等しいほど広大であるとして恭敬する偈が続く。レンダワの弟子であるアムド生まれのツォンカパ大師は、子どもの頃法主ドゥンドゥプ・リンチェン師によって世話され、教誡を授けられた。その後、同師により中央チベットに行って勉強することを勧められた。ツォンカパ大師はその勧めに従い、サンプー僧院のような学習の拠点で勉学に励まれた。
文殊菩薩のヴィジョンを得たラマ・ウマパは、ツォンカパ大師が文殊菩薩からアドバイスを授かれるように取り計らい、最終的にツォンカパ大師ご自身が直接文殊菩薩とまみえることが可能になった。ある時ツォンカパ大師は文殊菩薩に、正しい見解について質問し、文殊菩薩は簡潔で難解な答を示された。それに対して大師は「私にはおっしゃることが理解できません」と申し上げ、その結果として、文殊菩薩は大師に隠遁修行(リトリート)をして、浄化と資糧積集の修行をするように勧められた。ツォンカパ大師は、現在教えを授けている弟子たちを残して隠遁修行に入れば批判を受けるのではないかと尋ねられたが、文殊菩薩は忍耐を修行するようにと述べられ、「私には何が一番有益かがわかっている」とおっしゃった。
隠遁修行中のある時、ツォンカパ大師はナーガールジュナとその五大弟子の夢をご覧になった。そのうちのお一人で、ブッダパーリタ(仏護)と思われる方が前に進み出て、ご自身の著作『ブッダパーリタ註』(ナーガールジュナの『根本中論頌』の註釈書)をツォンカパ大師の頭に置いて加持された。翌日大師は、まさにその『ブッダパーリタ註』を入手され、そのテキストを読まれているまさにその時、大師は空性に対する深遠な直感的洞察を得られたのである。
それから法王は、『修行道の三要素』は大師の近しい弟子であるガワン・ダクパが書いた請願の手紙に対する返答として送られた書簡であることを説明されてから、各偈頌の解説を次のように進められた。
「1偈は、このテキストを書かれたツォンカパ大師の意図についての簡潔な説明です。2偈では、目指すべきことは、来世においてより善い生を得ることと、究極の善である解脱に至ることである、と示されています。このうち、来世においてより善い生を得ることは持戒の修行によって得られます。そして解脱に至ることは、三学(戒律・禅定・智慧)の修行によって成し遂げられます」
「3偈では、出離の心を育まなければならない理由が挙げられています。4偈は有暇具足(八つの悪い条件から離れた恵まれた境涯)を得たなかで、どのように出離の心を育むべきかが説かれています。有暇具足は非常に得難いものですが、避けがたい死によっていつ失われるかは分かりません」
「5偈では、出離の心が生じたと言えるのはどのような状態になった時なのか、その目安が示されています。6偈では菩提心を起こす理由について、7、8偈ではどのようにして菩提心を起こすべきかが著されています」
「9、10、11偈では空性の理解を育むことが、縁起の見解と結びあわせて説かれています。12偈では、空と縁起はお互いを補完するものであることが強調されています。13偈では、深遠な見解の分析が完成したならば、実在論と虚無論という二つの極端論へのとらわれがなくなることが明らかにされています。最終偈では、修行道の三つの要素の心髄を理解したならば、人里離れた静謐な場所に赴き、めざす境地を成就すべくひたすら努力せよ、というアドバイスがなされています」
「この教えとともに送られた手紙には、ツォンカパ大師が将来成道された際には、教えの甘露をまずガワン・ダクパと一緒に分かち合うことを約束すると書かれています」
法王は割り当てられた時間ちょうどにテキストを読み終えられたことを喜ばれ、3日目の明日は発菩提心の儀式を執り行われると告知された。そして法王は、1日に何度も菩提心を思い起こすことは、大変有益な修行であることを実感していると述べられた。
ツクラカン本堂の外に出られた法王は、時折立ち止まっては道の両側に並んだ人々と言葉を交わしながら車まで歩かれた。車に乗り込まれた法王は、短い距離を公邸に向かって戻って行かれた。