インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
ダライ・ラマ法王が公邸からツクラカンに向かわれた時、太陽は輝き、空が青く澄み渡り、背後にそびえたつ山々の頂には雪が見えていた。法王はツクラカンに向かって歩かれ、集まった人びとに手を振りながら、しっかりした足取りで中庭を進まれた。法王の説法を聞くために6,000人以上が集まっていたが、そのうち2,000人以上が世界60カ国から来ており、中でも一番多かったのはツクラカンを埋めた韓国出身の人びとであった。
法王が着座されると、その前に座っていたタイの僧侶たちがパーリ語で『吉祥経』を唱え、続いて韓国の僧侶たちが木魚の音にあわせて韓国語で『般若心経』を唱えた。
法王は次のように話された。
「韓国の方たちが再び法話を聞きに来られたので、シンプルですが難解な『般若心経』をとりあげることにしました。3日間ありますので、今日は仏教概論について説明してから『般若心経』の解説に入りたいと思います。明日はジェ・ツォンカパの『修行道の三要素』についても説明しますが、これは短いテキストで韓国語に翻訳されています」
「21世紀の今、私たちは大いに物質的な進歩を遂げたのだから、今さら宗教に何か利点があるのかと自問する人がいるかもしれません。この世界には、創造主である神の存在を信じ、愛と思いやりというメッセージを持つ宗教的伝統があります。このような伝統に属する人々は、すべての存在は神の創造物であり兄弟姉妹であると信じていながら、どうして互いに殺戮し合うようなことができるのでしょうか」
「インドには、サーンキヤ学派の一派、ジャイナ教、仏教という創造主としての神の存在を受け入れない宗教的伝統があります。これらの宗教では、私たちが経験する苦しみや幸せはすべて、私たち自身がなした行ないの結果であると考え、自分たちに起こることは皆、私たちの手中にあると教えています。その中には、身体や心とは別個に自我が独立して存在すると考える人たちがいて、前世から今世、今世から来世へと続くものがこの自我であると主張しています。しかし仏教徒は、前世から来世へと引き継がれていくものは、微細な意識の連続体であるとしています」
「私たちは肉体的に幸せや苦しみを経験しますが、それらに伴う感情は心の中で起こります。それにも関わらず、心の働きをほとんど評価していない人たちがいます。古代インドの伝統では、心について詳細に説明されていて、その解説の記録は仏教のテキストの中にありますが、このような知識は宗教的分野に限定される必要はなく、学問の一分野として、世俗の知識や教養として分析することが可能です」
「苦しみを避けたいのであれば、苦しみの原因を探しだし、それを取り除くことができるかどうかを検討する必要があります。同様に、幸せの原因がわかれば、大地に種を植え、実を結ぶまで水と肥料を与え育てるように、その幸せの原因を培うべきです」
「仏陀は弟子たちに対して、ただ教えを盲目的に受け入れるのではなく、よく分析して試すようにと忠告されており、もし論理的な裏付けがないならば、その教えを受け入れずにもう一度調べなさいとおっしゃいました。仏教は論理学と深遠な哲学的アプローチを用いることから、仏教徒は現代の科学者たちと対等に、建設的な対話をすることができるのです。科学者たちの多くが、原因に依存して結果が生じるという仏教の概念を高く評価し、また他の人びとも、心と感情の働きに関する仏教の理解に感銘を受けています」
「仏陀は無我の見解について、それ自体の側から独立して存在する実体は何もないと説かれました。自我意識を強く持つと不適切な考えが強くなり、すべての現象の現れに捉われてしまうだけでなく、対象物のよい特質や美しさにも捉われてしまいます。しかし中観派は、対象物はそれ自体の側から独立して存在しているように現れてくるが、そのような実体は何もなく、事物には客観的に存在する実体などどこにも存在しないと主張しており、これは量子物理学によるあらゆる現象の評価の根底にある考え方に合致しています」
「ナーガールジュナ(龍樹)は『根本中論頌』の中でこのように述べておられます」
「つまり、空を理解したならば、無明が尽きるということです。もし、古代インドの深遠な知識を現代教育と結びつけることができれば、非常に有益でしょう。利他の実践は利己主義の対策となる一方で、私たちの目に現れている通りにすべての現象が存在しているわけではないという考えは、一切の現象には固有の実体が存在するという誤った考えを断つための対策となります。このような対策を組み合わせることにより、心に力強いよき変容がもたらされるのです」
ここで法王は『般若心経』のテキストを取り上げ、仏陀は3回の法輪を転じて教えを説かれたと説明された。パーリ語の伝統は初転法輪に基づいており、そこには律蔵・経蔵・論蔵という三蔵の教えや、僧院の規律である戒律(ヴィナヤ)の厳格な遵守が含まれている。
霊鷲山の王舎城で説かれた第二法輪において、仏陀は般若波羅蜜(完成された智慧)について解説された。般若経典群には長いもの、中くらいのもの、短いものがあり、最も短い経典は「アー」という一音節のもので、これは否定を意味する言葉であり、実体が “ない” ことを意味している。『般若心経』は25偈の般若経としても知られており、テンギュル(論書)には、ジュニャーナミトラの『聖なる般若波羅蜜の心髄』など、インドの導師によって書かれた註釈書がいくつかある。
法王は、この “聖なる” という言葉は見道に達した者の境地を指しており、見道は聞・思・修、つまり、教えを聞き、それについて考え、考えて得た確信に基づいて瞑想するという実践によって達成され、そこには一点集中の瞑想(止)と鋭い洞察力(観)を培うことが含まれると説明された。
「ここで、方便と智慧の実践についてもお話ししておきましょう。方便とは、他者を救済するために仏陀の境地に至りたいと望む “菩提心” を培うことを含みます。仏陀の色身(形あるおからだ)は功徳を積むことによって達成され、法身(真理のおからだ)は究極のもののありようを理解する智慧を通して達成されます」
「仏陀は初転法輪の教えにおいて、仏教の基礎を築かれました。第二法輪では、般若波羅蜜(完成された智慧)について説明されていますが、これは、ナーランダー僧院の伝統が特別な注意を払っている空についての教えであり、精神修行の道における前進につながっています。第三法輪では、仏陀は最も微細な意識である光明の心について明らかにされました」
ここで法王は、『般若心経』の最初の偈について説明された。
ここで述べられている “現れ” とは、世俗のレベルのありようを示し、“深遠なる” とは、究極のありようを示している。すべての現象は自性による成立を欠いているが、世俗のレベルの現れは確かに存在する。法王は、これは原因に依存して結果が生じることをも示唆していると述べられた。
菩薩が、“五蘊もまた、その自性による成立がない空の本質を持つものである” と見た時、この「また、」という言葉によって、人無我のみならず、法無我をも明らかにされたことがここに示されているのである。
法王は、今日はここで終了し、明日再開することを告げられた後、短い休憩をはさんでサムドン・リンポチェによる本日の法話の復習会が行われるので、進んで質問をするようにと促された。