インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝の晴れ渡った空の下、ダライ・ラマ法王は公邸からツクラカンまで徒歩で向かわれた。本堂に到着されると、元ガンデン座主のリゾン・リンポチェに敬意を込めて挨拶されてから、法座に着かれた。法話の前に、パーリ語で『吉祥経』をタイの僧侶たちが唱え、続いて台湾の人々による中国語の『般若心経』が唱えられた。
法話には、個人参加を含め61カ国から7,500人以上の人々がツクラカンの内外を埋め尽くした。その内、台湾から1,127名が施主として参加したが、彼らは台湾国際チベット仏教協会の傘下となる21の信者団体に属している。これらの様々な団体の中でも最大の団体が「大楽と智慧(Bliss and Wisdom)」グループで、今回の法話会には850人が参加した。
定例の帰依の偈を唱えてから、法王は聴衆に向かって次のように述べられた。
「本日、台湾を始めとしたアジアの国々から漢族の方々が法話を聞くために来られました。私たちがここで学ぶべきことは、自らの心をいかによく変容させるかということです。一般的な仏教の伝統の中でも、ナーランダー僧院の伝統では論理と根拠を用いて心の働きについて教えています。そこでは怒りや嫉妬といった破壊的感情である煩悩をどのようにして滅するべきかを説明していますが、煩悩を減らしていくことにより、免疫機能が高められるという身体的な利益もあるのです」
「心の平安が重要なのは、誰もが幸福を求めているからです。幸福を得るために、その実践として心の平安を育み、それを守ると言うことは、必ずしも宗教的な行為ではありません。すべての宗教が愛と思いやりを説いていますが、それは人間が社会的な生活を営んで生きていく類の生き物だからです。私たちの安寧は、社会を構成する人々に依存しています。一般的に、愛情深い母親に育てられた子どもは、やさしい大人になると言われます。過去においては、人々は比較的小さいグループで家族と共に暮らしていましたが、今日では人類すべてが互いに依存し合っているのですから、70億の人間はひとつの家族を構成しています。ですから、人類はひとつの人間家族であると考えることは極めて重要なことなのです」
「仏教では母なる一切有情を救済することについて語りますが、現実的には、私たちは互いに意思疎通のできる人間しか助けることはできません。共通の言語を持たない動物を助けるのはかなり難しいと言えるでしょう。私たちの頭が煩悩の奴隷と化していれば何の役にも立ちませんが、他者に対する慈悲の心を育むなら、自他をともに幸福にすることができます。シャーンティデーヴァ(寂天)は『入菩薩行論』の中で次のように述べておられます」
「もし菩提心を育むなら、すべての有情たちが友人となります。敵はひとりもいなくなり、すべての人に親しみを感じます。一方で、自分のことだけを考えているならば、どんな人に対しても脅威を感じてしまうことでしょう。仏典には、今私たちが持っているこの人間のからだは得がたく、自他の幸福という目的を達成させてくれるので、非常に貴重なものであると説かれています」
法王は、まず仏教の基本的な教えはすべての弟子たちに対して公に説かれたものであり、後にパーリ語の経典として残されたと述べられた。この伝統はスリランカ、ビルマ、タイなど東南アジアの国々に伝えられ、守られている。その後の教えは、より学術的な言語であるサンスクリット語で記された。小乗、大乗という呼び方は、劣ったものと偉大なものという差別的な響きがあるので、法王ご自身はパーリ語の伝統とサンスクリット語の伝統という言い方を好まれている。パーリ語の伝統に従う僧侶たちは戒律の教えをよく守っているが、サンスクリット語の伝統を代表するナーランダー僧院の学僧たちは、論理と根拠に依拠することを重視して、仏陀の教えを盲信することなく分析し、探求された。
法王は、心の平安を育み、守ることの重要さを何度か繰り返され、特にそのために宗教に基づく必要はないことを強調された。重要なのは、煩悩をいかにして断滅するかを学ぶことであり、現在の教育システムに、社会的、感情的、倫理的な学習を取り入れるよう推奨する活動をしていることを紹介された。
法王は、仏教には究極のありようについての最も深遠な理解があるが、法王が関心を持っておられるのは、その知識を他者を助けるために使うことである、と述べられた。そして、仏教の教えには、心の科学、仏教哲学、そして仏教の修行という三つの局面があることが紹介されているが、これらのうち、心の科学と仏教哲学は、宗教に触れることなく、単にアカデミックな知識や教養として学ぶことのできるものである、と述べられた。
続いて法王は、人無我と法無我について仏教の四つの哲学学派によって異なった解釈がされていることを次のように説明された。
「唯識派では外界の現象は一切存在せず、現れている現象は自らの心の投影でしかないとして、ただ意識のみが実体を持って存在していると主張しています。一方、中観派ではいかなる実体的存在も認めず、それ自体で独立して存在する事物は何ひとつ存在していないという見解を明らかにしました。すべての事物は、単なる名前を付けられただけの存在に過ぎないのです」
「すべての事物は因と条件という他の要素に依存しているため、単なる名前をつけられただけの存在に過ぎません。色や形を持つ物質的存在を深く検証するならば、事物にはそれ自体の固有の実体はなく、空の本質を持つものなのです。しかし、現れてくる対象物は、世俗のレベルでは確かに存在しています。『般若心経』の中で、『色不異空、空不異色』(物質的存在は空に異ならず、空も物質的存在に異ならない)と述べられている通りです」
「心とは、刹那の連続体であり、一刹那ごとの意識の連なりとして存在しています」
法王は、誰かに仏陀の像を贈る時には、釈尊は私たちに仏法を教えてくださる師であると認識するよう伝えている、と述べられた。つまり、重要なことは教えを学ぶことなのである。チベットに仏教が伝わるずっと以前から、中国に仏教が伝わっていたが、玄奘三蔵はナーランダー僧院で学んでから中国に戻り、チベットにはナーランダー僧院の学僧の第一人者であるシャーンタラクシタ(寂護)が仏教を伝えた。その意味で、両国ともナーランダー僧院の伝統を引き継いでいるが、ディグナーガ(陣那)やダルマキールティ(法称)が確立した論理学と認識論に関する重要な論書がチベット語には翻訳されたものの、中国語には翻訳されなかったのである。
法王は、本日のテキストであるナーガールジュナの『宝行王正論』の第1章を今から読み進めていくと告げられ、まずはテキストの概略を解説された。この章では来世における一時的な幸せ(人間や天人など善い世界への転生)と究極の幸せ(解脱に至ること)の区別を明確にしている。人間や天人という善き世界に生まれ変わることは幸せであると考えられているが、究極の幸せとは解脱を意味している。究極の幸せを得るには智慧を育み、分析と精査によって心をよりよく変容させる必要があるが、それは人間の生を得てのみ可能となる。心の変容は短期間では達成できないが、努力を続けるならば結果は必ず生じる。教えに対する確信を得るには、何度も教えを聞いた上で、自分の知性を用いて何度も考察しなければならない。さらに、考えたことによって得られた確信を、瞑想を通して心になじませていくことにより、それが心の変容をもたらすのである。
法王は最後に、この後引き続いて、ヤンテン・リンポチェによる今日の法話の復習会があるので是非参加するようにと聴衆に勧められ、ただ黙って聞いているだけでなく、何であれ疑問に思うことを質問するようにと言われた。明日法王は、テキストの解説を続けられる。