インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
ダライ・ラマ法王は今朝、ツクラカンに到着されると法座の周囲に集まった高僧方や主賓に挨拶をされた。法話会は、タイ人の僧侶たちによるパーリ語の『吉祥経』の読経と、それに続くベトナム人の僧侶と一般参加者によるベトナム語の『般若心経』の読経によって開始された。
法王は以下の『般若心経開経偈』を口早に唱えられ、続いてマイトレーヤ(弥勒)の『現観荘厳論』とナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論頌』から仏陀への礼賛偈を唱えられた。
法王は次のようにお話を始められた。
「昨日は皆さんに一般的な仏教概論についての解説をしました。今日は『菩提心の解説』のテキストに沿って話を進めていきますが、これは正式な説法というよりも、むしろ皆さんに向かって教室で講義をしていると考えたいと思います。これからテキストを読み進め、後ほど質問を受ける機会も設けたいと思っています」
「このテキストの導入部は三つの段落から成っていますが、第1段落は秘密集会タントラ(グヒヤサマージャ)の根本タントラの中で大日如来が述べられた “菩提心句” と呼ばれる偈です。これこそナーガールジュナが学ばれ、修行した上で書き著されたものです。ナーガールジュナは、生起次第について解説し、秘密集会タントラの註釈書である『五次第』の中で、究竟次第についての詳しい説明をされています。ナーガールジュナの一番弟子であったナーガボーディ(龍智)は、誕生、死、再生の過程を仏陀の三身になぞらえて『三身修道次第』を著しました。同じくナーガールジュナの弟子のアーリヤデーヴァ(聖提婆)とチャンドラキールティ(月称)も秘密集会タントラの解説書を書いており、どれも智慧の根源として重要な書となっています」
「この『菩提心の解説』については、今ここに座っておられる前ガンデン僧院座主のリゾン・リンポチェから、私はルンの伝授(師が弟子にテキストを読み聞かせるという伝授)を授かりました。このテキストは、サンスクリット語では、『ボーディチッタ・ヴィヴァラナ・ナーマ』と言われる、という説明から始まっています。チベットのソンツェン・ガンポ王がチベット文字の創作に乗り出してから、シャーンタラクシタ(寂護)はインドの仏典をチベット語に翻訳するよう、ソンツェン・ガンポ王に強く進言しました」
「私たちがインドに亡命して以来、我々チベット人は以前に比べて外部世界と接触する機会が各段に増えました。現在では、私たちがチベット語に翻訳した多くの論書が、さらに多数の言語に翻訳されています。私たちが書物の形で護持してきたものが、世界の宝になっているのです」
「釈尊は悟りを得た後、このように考えられました。『深甚で寂静、戯論を離れ、無為である光明、そのような甘露の如きダルマ(仏法)を私は得た。しかし他者にこれを説いたとしても誰にも理解できないだろうから、このまま森にとどまって沈黙を守ろう』。この註釈書のタイトルに書かれている “菩提心” とは、“世俗の菩提心” だけを指すのではありません。“究極の菩提心” である空を理解する光明の心のことも指しています。微細なレベルの意識には様々な段階があり、最も微細なレベルの意識とは、原初から存在する光明の心であり、この最も微細なレベルの意識は、我々の日常的な粗いレベルの意識ではなく、完全なる仏陀の意識となるものです」
「最も微細なレベルの心である究極の光明の心は空性に溶け込み、最終的に微細なレベルの所知障を滅する対治(対策)となるものであり、それがここで言われている “菩提心” なのです」
「釈尊が比丘のお姿を取って現れ、説かれた教えもありますが、その他にも、釈尊は密教のご本尊のお姿で顕現されて、粗いレベルの意識やエネルギーの機能を止め、原初からの光明の心を実現されたのです」
続いて法王は、次のように説明された。
「死の瞬間には、たとえ凡人であっても光明の心が立ち現れてきますが、“真黒に近づく心” と呼ばれるヴィジョンを見た後の記憶はないので、それを修行道として用いることはできません。一方、熟達した修行者であれば、中央脈管上の心臓のチャクラでそれを顕現することができます。禅定の力により、死に向かう過程において、地・水・火・風・空という五つの要素がそれぞれ、地が水に、水が火に、火が風に、風が虚空に溶け込んでいき、修行者は、粗いレベルの八十の分別を持つ自性の心の機能を停止させ、光明の心を顕現させることができるのです。生前の修行の効果として、修行者は記憶と認識を保ち、光明の心を顕現させることが可能になります」
「そのような優れた修行者は、睡眠中にも光明の心を顕現させて、空性についての瞑想を行うことができます。粗いレベルの心が次第に溶け込んでいき、機能を停止していく段階を瞑想することにより、微細なレベルの光明の心を顕現させることは、最も微細なレベルの所知障の対治(対策)となるものです。このように、微細なレベルの意識については密教の中でのみ詳しく説かれており、空性を悟った意識として、最も微細なレベルの所知障を断じる対治として働きます」
非仏教徒たちの学派では、単一で、独立自存の自我が存在すると主張しているが、仏教の哲学学派では、身体と心の集まり、つまり五蘊(色・受・想・行・識という五つの集まり)が人の基盤であると考えている。しかし、五蘊は、その現れ通りには存在しておらず、それに対する執着がある限り、空性を完全に理解したとは言えない。
「光明の心を空性の瞑想に活用するなら、唯識派の見解に従えばいいのですが、心がより微細になっていき、修行者が究竟次第に入って、心を世俗の捉われから隔離する段階(定寂心)に到達したならば、唯識派の見解は中観派の哲学に変容すると言われています。ナーガールジュナは『根本中論頌』の中で次のように述べられています。
法王は、『般若心経』の中で観自在菩薩が述べられた甚深四句の法門と言われる「色即是空、空即是色、空不異色、色不異空」の部分を引用されて、五蘊の集まりについての理解に応用できるとされた。
ここで法王は、ツォンカパ大師についての逸話を思い出された。大師がキョルモルン僧院に滞在し、律蔵の研鑚に励まれていたころ、僧院の祈願会に参加されていた。祈願会で大勢の僧侶が『般若心経』を読誦する最中に、大師はしばしば深い瞑想に入られ、一点集中の状態を保たれていたので、他の僧侶たちが祈願会の読経を終えて会場を離れたのも知らず、ひとり本堂に残って瞑想を続けられたほどであった。その時大師が座られた傍らにあった柱は後に「禅定の柱」として知られることとなった。
「空性を直感で理解したならば、その時悟りに至る第2の道である見道に入ります。そこから菩薩の十地を段階的に進んでいきます。第7地に達したなら、すべての煩悩から離れることができます」と法王は述べられた。
テキストを読み進められながら、法王は22偈からは唯識派の見解を否定する偈に入ると述べられた。55偈からは中観派の見解が示されている。空性は虚無論ではなく、なぜならすべての事物は縁起によって生じているからであると解説されて、法王は59偈まで読まれて本日の法話を終了された。
その後数名からの質問を受けられ、それに返答する中で、法王は『般若心経』に説かれている甚深四句の法門の意味は、空とは事物の性質であるということであり、そこには何らかの基盤となる事物がなければならない。色(物質的存在)と空の本質は同じであるが、概念的には区別されている、と付け加えられた。
法王はさらに、私たちが何かを探しても見つからないと言う時、それは存在しないのではないと明らかにされた。そして、ドムトンパの火と手の喩えを引用された。火も手もそれぞれ自性によって成立しているのではないが、もし手を火にかざせば、やけどをする。分析してみれば、自性によって成立している火も手も存在しないが、両者は世俗のレベルでは確かに存在している。
菩提心という利他の心を日常生活の中でどのように育むべきかとの質問に答えて、法王は、もし苦しみを克服する方法があることを理解しているならば、他者も同様に苦しみを克服できますようにという願いを起こすべきだ、と述べられた。菩提心は愛と慈悲の心に根ざしており、その点はあらゆる宗教に共通である。しかし菩提心に特徴的なことは、有情をできる限り救うために、その手段として自らが悟りの境地に至ろうという願望を合わせ持っていることである。
法王は明日も引き続き『菩提心の解説』について解説される。