インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州マナリ
ダライ・ラマ法王のマナリご滞在も終わりに近づき、オン・ンガリ僧院の僧侶たちは法王を同僧院に招聘した。
ロブサン・サムテン僧院長は法王を出迎え、ホルンに似たチベットの伝統的楽器を奏でる僧侶たちや、法王に儀式用の傘を差しかける僧侶と共に法王を先導し、堂内へ続く短い道を進んだ。
堂内に入られた法王は、法座に着かれる前に、まず釈迦牟尼像および観音菩薩像に礼拝された。
すると直ちに二人の僧侶が法王の前で仏教哲学の問答を開始した。一人は立って質問し、もう一人は立った僧侶に向かい合う方向で床に座って答えている。問答の主題はダルマキールティ(法称)の『量評釈』に説明されている用語の用法についてであった。この二人に続いて、別の幾組かの若い僧侶たちが問答を披露したが、中にはまだ少年僧の組もあり、どの組も白熱した問答を行った。法王はその様子を満足そうにご覧になっていた。
次に読経が始まり、法王も僧侶たちに唱和された。最初に読誦されたのは、『現観荘厳論』第1章で、ダライ・ラマ2世ゲンドゥン・ギャツォが伝えられた読誦法に則って読まれた。続いてチャンドラキールティ(月称)の『入中論』第2章と『無垢の白き法螺貝と呼ばれる大悲を持つ方への礼讃文』が唱えられた。最後はダライ・ラマ1世ゲンドゥン・トゥプの『東方の雪を頂く山々の歌』というツォンカパ大師を勧請する、以下の偈頌で始まる祈願文であった。
その後僧侶たちは、法王のご長寿を祈願する『十六羅漢への祈願文』を元にした短い法要を執り行い、その間にお茶と甘いご飯が配られた。そして、法王の二人の家庭教師によって著されたダライ・ラマ法王に捧げる長寿祈願文『不死を達成する甘露の旋律』が詠唱され、この儀式が終わった。
そこで法王は、僧侶たちに向かって次のようにお話を始められた。
「私たちは今日、再建されたオン・ンガリ僧院に集まりました。オン・ンガリ僧院は元々ダライ・ラマ2世ゲンドゥン・ギャツォが創設された僧院ですので、ダライ・ラマの系譜と特別な繋がりがあります」
「先日は一般参加者に向けた法話会を行い、今日は皆さんが私のために長寿祈願法要を執り行ってくれました。また、若い僧侶たちが問答の技量を披露してくれましたが、問答に習熟することはとても大切です。ナーランダー僧院の伝統は、基盤・修行道・結果によって構築されていますが、そのうちの基盤となるのは、二諦(「二つの真理」)を理解することであり、それによって四聖諦(「四つの聖なる真理」)(注)の中の、特に滅諦を理解することができるのです。自分の心の中で、苦しみを完全に止滅した境地を達成することができると確信することが重要です。この過程には、正しい根拠に基づいて仏陀の教えに信心することも含まれています」
注:「四つの聖なる真理」、苦・集・滅・道。「苦諦」とは、苦しみが存在するという真理。「集諦」とは、苦しみには因が存在するという真理。「滅諦」とは、苦しみの止滅が存在するという真理。「道諦」とは、苦しみの止滅に至る修行道が存在するという真理。
「先日私は、自分たちのお堂や僧院を、仏教を学ぶ学習センターにしょうと決めたヒマラヤ地方の人々に会いました。仏教の学習は僧侶と尼僧に限らず、在家信者も仏教をきちんと学ぶべきことを覚えておいてください。仏法は全ての人に開かれた、皆が学ぶべき教えです。この僧院には仏教哲学を学ぶためのしっかりしたプログラムがあります。地元の人々に、この僧院が仏教を学ぶ機会を提供していることを早く知らせてあげてください。“仏教基礎学” から始めて、これらをまとめたいくつかのテキストや、心の働きについても紹介するならば、多くの人の役に立つことでしょう」
法王のアドバイスを受けて僧院の主任教師は、すでに近くの七つの場所で仏教について教える計画が進んでいると報告した。
法王はお堂の後方に描かれた壁画をご覧になり、片方の扉にはネチュン・ドルジェ・ダクデンが、もう一方の扉には十六羅漢が描かれていると述べられた。そして論書(テンギュル)の中にこの絵に関する言及があるかどうかを尋ねられた。それに対する答えは、確かに言及があるが、詳細は明らかでないというものであった。法王は、十六羅漢は仏法の護持者であると見なされていることを伝えられ、そうであるなら比丘の姿をされているべきであるが、通常十六羅漢は中国の衣装を纏った姿で描かれている、と述べられた。仏法の護持に関していうならば、仏法は経典の教えと体験に基づく教えから構成されており、これらを護持するためには経典の学習と瞑想修行が不可欠である。
ラムリム(菩提道次第:修行道の段階)についてのテキストで、特にパンチェン・リンポチェの『菩提道次第 ― 大楽道』と『菩提道次第の直伝 ― 一切智者に至る速得道』(『菩提道次第の安楽道』の註釈書)について言うならば、凡庸な知性しか持たない弟子たちが修行すべき道について説かれたものであろう、と法王は考察された。ラムリムの教えを説いたテキスト類を学ぶだけでは十分でなく、『現観荘厳論』で説明されているように、二諦、四聖諦、三宝(仏陀・仏法・僧伽)の徳性を土台として説かれた釈尊の教えの内容をしっかり理解する必要がある。法王は、過去においてチベット人は、凡庸な能力しか持たない弟子のために説かれた修行の道に従ってきたようである、と繰り返された。
そして法王は次のように続けられた。
「経典を学習し、問答することは大切です。初めに仏法を聴聞して勉強し(聞)、それについて昼夜を問わず繰り返し考え、疑問の余地なく確信するまで徹底的に考えます(思)。“師がそうおっしゃったのだから、そうなのであろう” などと言って、テキストに書かれていることを盲信したりしてはなりません。“四つの拠り処” に基づいて繰り返し熟考することにより、それ以外の選択肢はあり得ない、という地点にまで至らなければなりません。疑念はすっかり失せ、心に確信が生まれるまで続けます。そのようにして福徳と智慧の資糧を積むのです。ツォンカパ大師が空性を直感的に理解するに至られたのは、聞・思・修(聞いて・何度も考えたことについて瞑想し、心に馴染ませること)を通してでした」
「私たちは、ツォンカパ大師が聞・思・修の修行をされ、浄化と資糧積集の修行によってそれを高められたということを今学んでいるのです」
「私に関して言えば、15歳の時から約70年間にわたって空性を瞑想してきました。クヌ・ラマ・リンポチェから授かった『入菩薩行論』の解説は、菩提心の修行に大変役立っています。もちろん本尊ヨーガの修行もしますが、私の瞑想の主な焦点は菩提心を育むことと空性の理解を深めることです。私も一生懸命精進すれば、幾ばくかの体験を得ることができます。ですからあなた方も熱心に修行すれば、結果を得ることができるでしょう。私が皆さんにお話したいことは以上です。ありがとうございました」
その後僧侶たちは法王の周りに集まり、記念撮影が行われた。法王はお堂の外の中庭でもボランティアの人々や関係者との集合写真の撮影に応じられ、法王のお姿を一目拝見しようと詰め掛けた門の外にいる群衆に手を振られた。明日、法王はマナリを出立してデリーに向かわれる。