インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州マナリ
今朝ダライ・ラマ法王は、法話会場へ向かわれる前に、台湾の客家TVのインタビューに応じられた。様々な話題に答えられたが、記者からは特に、法王ご自身は歴代の中で最も楽観的なダライ・ラマなのか、またどうしたら笑顔を絶やさずにいられるのかを質問され、次のように答えられた。
「私はひとりの人間であり、人間は社会的な生活を営んで生きていく類の動物です。この世界に住む70億の人々は感情的にも精神的にも肉体的にも同じなのです。すべての人が幸福な人生を送る権利を持っています。笑顔を見せるのは人間だけであり、それは自然に現れてくるものです。しかし、8世紀のインドの導師であったシャーンティデーヴァ(寂天)は、“菩提心の修行をする者であれば、誰に出会ったときでも笑顔でいなさい” と言われました」
チベット文化のユニークな点は何かと問われて、法王は次のように答えられた。
「チベット人は広い国土に散らばって暮らしていますが、すべてのチベット人が、7世紀のソンツェン・ガンポ王の命によって作られたチベット文字をずっと使っています。この文字はインドのデーヴァナーガリーと呼ばれるサンスクリット語などで使う文字を元にしています。8世紀に現れたシャーンタラクシタ(寂護)は、チベット人は独自の言語を持っているのだから、インドの仏典などをチベット語に翻訳するようにとアドバイスされました。その結果、チベット語はモンゴルやヒマラヤ地域でも使われるようになったのです」
「現在ナーランダー僧院は遺跡となってしまいましたが、シャーンタラクシタがもたらした仏教の知識は今でもチベットでそのまま維持されています。中国人である玄奘三蔵もナーランダー僧院に巡礼に来て、そこで学ばれたため、その伝統に触れているはずですが、論理学や認識論的なアプローチを採用することはありませんでした。そこで、将来、中国がチベットを物質的にサポートし、チベットが中国を精神的に手助けできるようになればと私は思っています。一方、私は、心や感情の働きに関する古代インドの智慧を現代教育と結びつけ、ここインドで再復興させようと努力しています。煩悩に対する取り組み方をより多くの人が学ぶならば、多くの人が内なる心の平和を得て、より広く世界平和のために貢献することができるでしょう」
前夜からの激しい雨で、法話会場の地面は水浸しとなっていたが、法王が到着される頃にはひどい水たまりも消え、雨も上がっていた。法話に先立って僧侶たちがチャンドラキールティ(月称)の『入中論』の第一章を読誦し、会場がそれに唱和した。その後法王は次のように述べられた。
「皆さん、テキストは手元に届いてますか?今日は、第二の仏陀と言われるナーガールジュナ(龍樹)の『菩提心の解説』を読んでいきます。彼の多くの著作はナーガールジュナの偉大な徳性を示しています。彼は哲学的な註釈書だけでなく、グヒャサマージャ(秘密集会)などのタントラのテキストの註釈書も著し、その弟子であるチャンドラキールティやアーリヤデーヴァ(聖提婆)もそういった註釈書を書かれています。ただ、ナーガールジュナが般若経典の教えをナーガ(龍神)から授かったという逸話がありますが、この話は単なる言い伝えではないでしょうか」
「この『菩提心の解説』というテキストは、空性を直観的に理解する “究極の菩提心” を育むことがいかに重要であるかを強調していますが、それと同時に、一切有情を救済するために仏陀の境地に至ろうと願う “世俗の菩提心” をも伴っていなければならないことが述べられています。この願いは、“大いなる慈悲の心(大悲)” を育むことから生じます。チャンドラキールティはこの “大いなる慈悲の心” を、修行道の始め、中間、終わりのすべての段階において称賛しています。それは、最終的な仏果を得るための種であり、それを育てる潤いでもあるとも述べています」
「有情が無明に束縛されているのは、煩悩が誤った見解に根ざしているからです。ナーガールジュナは『根本中論頌』の最後に、仏陀を称賛して次のように書かれています。
また、この『根本中論頌』の冒頭では、帰敬偈において次のように説かれており、このように八つの極論を否定しています」
法王は聴衆に配布されたテキストと同じ本を開いて、冒頭にある『ナーランダー僧院の17人の成就者たちへの祈願文』を読み始められた。
「礼讃偈の第1偈は、比類無き独自の哲学的見解を説かれた釈迦牟尼仏陀に対する帰敬偈です。第2偈は般若波羅蜜を解説され、縁起の見解を解明して中観の先駆者となられたナーガールジュナへの礼讃であり、その弟子のアーリヤデーヴァとブッダパーリタ(仏護)がそれに続き、中観帰謬論証派の見解を明らかにされました。同じくナーガールジュナの弟子であるバーヴァヴィヴェーカ(清弁)は “世俗の真理” においてのみ、ある程度の実体が存在することを主張しました」
「チャンドラキールティの革新性は、事物(因と条件に依存して生じたもの)は虚無と恒常の二つの極端論を離れて、条件に依存して存在していると主張したことです。それがすべての事物の現れと、究極のありようを理解する基盤となります。彼はまた、顕教と密教の教え全体についても解説されました」
「次はシャーンティデーヴァです。ナーガールジュナやアーリヤデーヴァも菩提心について説かれましたが、それを最も深遠で広大に開示したのは彼の『入菩薩行論』であり、この書に並ぶものは他にありません」
「私が子どもの頃、菩提心について少しは関心がありましたが、それを実現するのはとても難しいだろうと感じていました。そこで、そのように家庭教師のタクダ・リンポチェに正直に申し上げたところ、決してあきらめたりしないようにと助言され、リンポチェご自身は菩提心を味わった経験がいくらかあることを打ち明けてくださいました。亡命後に『入菩薩行論』の解説の伝授を授かったことにより、もし努力するならば、本物の菩提心に少しは近づけるだろうと感じられるようになりました」
「私が17人の成就者たちへの礼讃偈を書いたのは、すでにインドの8人の偉大な導師たちへの礼讃がチベットに存在していましたが、私たちが常に依存し、頼りにしている論書を書かれた9人の導師たちが、そこに含まれていなかったからなのです」
「次のシャーンタラクシタは、根拠と論理を以て学ぶ伝統をチベットに確立してくださった方であり、そのことに対して私たちは感謝しています。そして、その弟子のカマラシーラ(蓮華戒)はチベットで『修習次第』を著されました」
「アサンガは唯識派の開祖であり、その弟であるヴァスバンドゥ(世親)は『阿毘達磨倶舎論』を著した論師です。その弟子であるディグナーガ(陣那)は論理学の師で、彼の弟子のダルマキールティ(法称)も論理学と認識論の導師でした。ヴィムクティセーナ(解脱軍)はヴァスバンドゥの弟子でしたが、般若波羅蜜を中観の観点から説かれました」
「ハリバドラ(獅子賢)も般若波羅蜜の解説者として著名であり、多くの学僧たちがハリバドラの『現観荘厳論註』を暗唱しています。ネパールのコパン僧院出身の尼僧のグループもこのテキストを暗記していましたから、この点で私より上ですね、と彼女たちに言ったことを私は今でも覚えています」
「グナプラバ(功徳光)とシャーキャプラバ(釈迦光)は共に僧院の戒律師で、最後のアティーシャは、勝利者仏陀の教えを雪の国チベットに繁栄させてくださった恩深い導師です」
「礼讃偈の最後には、『我が心の連続体が成熟し、解脱を得られるよう加持してください。解脱に至る修行道の根本を確立できるよう加持してください。作為のない菩提心を完成できるよう加持してください。般若波羅蜜と金剛乗の一切の修行道において、速やかに容易く確信が育まれるよう加持してください』と締めくくっています。奥付において、私たちは仏陀の教えの拠り所を吟味し、偏見のない心で、探究心を持って深く分析するべきであると強調しました。この礼讃偈は多くの方々の中でも、特にトゥルシク・リンポチェのリクエストによって私が書き著しました」
「儀軌を執り行ったり、祈願文を唱えるだけで満足してはいけません。釈尊が二諦と四聖諦を基盤として説かれた内容をよく理解するように努めてください。ナーランダー僧院の伝統に従い、根拠と論理に頼るならば、釈尊の教えは将来長きにわたって存続することができるでしょう」
続いて法王は『菩提心の解説』を手に取って、その偈頌を順に読み始められた。我々は、ものごとはそれ自体の側から独立して存在していると考えているが、目の前に現れているものを分析してその実体を見つけようとしても、どこにも見つけることはできない、と述べられた。だから、客観的に存在する事物はこの世に何一つなく、世俗のものとして、あるいは、単に名前を与えられたものとしてのみ存在しているに過ぎない。たとえ一刹那の心でさえ、意識の連続体の瞬間を実体として捉えることはできないのである。
「究極の菩提心」についての議論は72偈まで続き、73偈からは菩提心を何としてでも起こしたいと願う「世俗の菩提心」についての説明となる。チベット語の悟りを意味する言葉「チャン・チュプ」は、「チャン」と「チュプ」の二つの部分から成り立っている。「チャン」とは、煩悩に対する対策(対治)を講じることによって汚れた心を浄化することを示しており、「チュプ」とは、ひとたびすべての煩悩が断滅されたなら、“明らかで、対象を知ることができる” という心の本質が立ち現れることを示している。そうなれば、すべてのありようをあるがままに見ることができる、と法王は述べられた。
『現観荘厳論』の註釈書では、菩薩は有情を慈悲の心をもって見るが、その慈悲の心は、苦痛に基づく苦しみ(苦苦)や変化に基づく苦しみ(壊苦)のみならず、遍在的な苦しみ(行苦)も含めてすべての苦しみを取り除こうと望むものであり、それは12支縁起によって説明されている。12の事象のうち、第1の支分である無明が断滅できれば、残りの11の支分は生じない。これを実現するためには、空性を理解する必要がある。
利他心と利己心を比較して、法王はパンチェン・ラマ4世ロサン・チューキ・ギャルツェンの『上師供養』から下記を引用された。
菩提心を育てるということは、自分自身を有情利益のためだけに捧げることである。
法王はテキストを読み終えられると、明日と明後日は休みとし、次の8月17日には『心を訓練する八つの教え』と『37の菩薩の修行』のテキストを読み、その後観音菩薩の灌頂を行う予定である、と告げられた。