インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝、ダライ・ラマ法王は「第3ミレニアム(2001年〜3000年)の人間教育」をテーマにした第一回円卓会議に出席された。この会議には、インド、ドイツ、ブラジル、メキシコ、フィンランド、アメリカ、オーストラリア、バングラデシュ、ロシア各国の15名の教育者が参加した。
法王が会議の会場となった謁見室に入られ、参加者たちにくつろいで過ごすよう促された後、この会議のコーディネーターであるマルガリータ・コジェフニコワ氏が、今回の会議は教育に関する世界フォーラムの準備であることを報告した。続いて同氏が、教育指針、人間であること、民主主義の教育、人間志向の教育という4つの要点の概要を説明した後、今朝の会議の進行役であるスコット・ウェブスター氏がこれまでの討議の経過を概略した。
ウェブスター氏は、教育者の立場から見ると状況は悪化していると法王に伝えた。学校や大学は学生が仕事を得るための教育により重点を置くようになっていて、人格の養成は軽視されている。この傾向が続けば、仕事や労働者に関する価値のみが評価される一方、人間としての価値は評価されない。教育は計測可能な対象のみになされ、全体として縮小されている。教師は各自の創造性を発揮できず、したがって人間教育の機会も失われている。これを規定する政策を決定するのは政府や企業人であり、専門的な教育者ではない。
教育者の間では、経済単位、あるいは労働者、消費者としてよりも、人間教育のほうが大切だという共通認識がある。知識と技術は役に立つが、人間としての価値を高める必要もある。討議を通じて、会議の参加者たちは実際に行動を起こす必要性を表明した。
民主主義とは、人間の自由と尊厳、正義、包括性を意味する。ポピュリズム(大衆迎合主義)とナショナリズムの拡大、ひいては排他的態度という脅威の下でも道徳的生活を送ることである。教師たちは民主主義の保持と強化を切望している。
参加者たちは、教育学と学生の育成に関して、学生に質問を投げかけることがより良い人間になる手助けになるということに注目した。
ここで、ウェブスター氏から法王に以下の質問がなされた。教育政策の課題とは何か、人間であるとはどういう意味か、法王は民主主義が人間性の繁栄の発露だと考えられておられるか、また教育者とは何か。
これに対して法王は次のように答えられた。
「もし教育というものが、個人の生活の幸福、幸福な社会、幸福な世界を目指していたとするなら、それは失敗であったと言えるでしょう。私たちは誰もが幸福な生活を望んでいますが、毎日テレビで目にするのは困難に直面している多くの人々です。そして宗教の名のもとに信じられないような争いが起きています」
「学校に入る前の幼い子供たちの基本的な人間性に汚れはありません。彼らは遊び友だちの宗教や人種、国籍など気にしませんし、基本的に優しいです。子供たちは母親のやさしさと気遣いによって生き延びていて、それが生涯にわたる安心感をもたらすのです。私たち人間は社会的な生活を営んで生きていく類の動物ですから、個人は社会に依存することで生きていくことができます。しかし子供たちが学校に行くようになると、基本的な人間の価値については軽視されていきます」
「近代教育は産業革命の出現と、人々が数学や科学を理解する必要性が高まったことにより、西洋で発展してきました。物質的な向上を目指し、心の平安はほとんど無視されています。学生たちは自分の怒りや恐れ、不安と戦うすべを教えられていません。解決法をほかに何も知らないので、安易に飲酒や薬物に助けを求めてしまいます。健康のために身体の衛生を保つべきことは幼い時から教えていますが、それに対応する感情面における衛生も必要とされているのです。子供たちに、怒った顔と笑顔とどちらが好きかという、簡単な質問をすることから始めてはどうでしょう」
「個人の利益を追求するのは合法ですが、賢い方法で行わなければなりません。幸せになりたければ前向きな態度が必要であり、その最善の方法は他者を気遣うこと、仲間の面倒をみることです。教育を通して、心の平安を得る方法と内なる強さを維持する方法を教えるべきだと思います」
「インドには『アヒンサー(非暴力)』と『カルーナ(慈悲)』という古くからの伝統があり、高められた一点集中の力である『シャマタ(止)』と、鋭い洞察力を養う『ヴィパッサナー(観)』という修行があります。単に感覚を通した知覚作用のレベルではなく、純粋な精神的意識作用のレベルにおいて心はとても重要です。怒りと恐れは純粋な意識作用のレベルで生じます。もし、以前から、心の地図や感情の地図を描けていたなら、私たちは心のはたらきをより深く理解し、破壊的な感情を克服することもより容易にできたことでしょう」
「私たちの心の平安を破壊するものは何かと言えば、怒りと恐れと利己主義です。何事も現れているようには存在しないという量子力学の発見は、ナーガールジュナ(龍樹)の教えに通底しますが、このような破壊的感情を滅する手段として非常に有効です。今私は84歳になり、空性を理解する智慧、慈悲と菩提心について70年も考え続けてきましたが、これが私の心の平安を保つのに大変役に立ちました。そしてこれらの教えが仏教のテキストの中に述べられているものであっても、健康維持に役立つものとして、一般教養としての客観的な研究対象として考えることもできるでしょう」
「近代教育では当たり前のことになっていますが、教育システムの焦点が物質的向上に当てられていると、それによって教育された人々は当然物質的生活を送るようになってしまいます。そこで私は、心と感情に関する古代インドの知識を現代社会に復興させようと努力しているのです。長期的に見て、インドがその古典的知識と近代教育の統合に成功してほしいと願っています。もし、教師たちに『アヒンサー』と『カルーナ』を促進するよう訓練できたなら、より平和な世界の形成に大きな貢献をすることができます。科学的知見と常識を基盤にした知性を応用して、愛と慈しみを醸成することが可能であることを教師たちも学ぶことができるでしょう」
「今回のような会議によって、近代教育は不完全であることを確認することができました。だからこそ、これからもこの会議が継続されることを心から望んでいます」
ここで法王は参加者からの質問に応じられ、次のように述べられた。
「民主主義は、教師が学生に対して持っている思いやりと同様に、他者に対する思いやりと他者の考えを尊重することに根ざしています。人間は兄弟姉妹のように、ともに生きていかなければならないのですから、争い事を収める適切な方法は対話による解決であり、暴力や権力の行使は極力避けなければなりません」
法王は、地球温暖化と気候変動の深刻さをとらえ、ある中国の環境学者が80年後には世界が砂漠化する可能性があると述べたことを伝えられた。水資源の枯渇はすでに注意喚起レベルにある。続けて法王は、これを解決するには一人ひとりがライフスタイルを変え、化石燃料を放棄して再生可能なエネルギー資源に移行することである、と述べられた。
「人類は一つの社会なのですから、私たちは相互共助のために知性を使わねばなりません。民主主義が成功する条件は、私たちの正しい動機とすばらしい人間の知性を、優しい心で発揮することなのです」
セッションの終了にあたり、マルガリータ・コジェフニコワ氏が、教育者の多くが人間性の価値を学生たちに伝えたいと望んでいるが、現行のタイトな教育課程ではほとんどその時間が取れないという実情を報告した。試験の好成績という可視化しやすい結果を提供することがそれにとって代わってしまっているのである。
ここでサムドン・リンポチェ教授が、ダラムサラ・カレッジにおいて古代インドの智慧を学ぶ6カ月の教員養成コースを開講する許可が下りたことを、喜びをもって会議の参加者たちに報告した。加えて、世俗の倫理により親しむために、2〜3日の訓練期間でワークショップが開かれることも発表した。これによって2,000名の教師たちが恩恵を受けられることが期待されており、幼稚園から8年生(中学2年)までの学校が、古代インドの智慧の要素を導入する計画が現在進行中である。
会議の終了にあたり、マルガリータ・コジェフニコワ氏は参加者たちとの会議に参加するため、時間を割いてくださった法王に謝辞を述べた。法王はこの会議を主催した同氏に返礼として、ロシアを東西の架け橋とみていることを告げられた。法王は、より良い平和な世界を築くためには、私たちの知性をより平和な目的のために使うべきであり、これまで以上に精密な兵器を生み出すために使うべきではない、として話を締め括られた。
そして法王は、会議の出席者とオブザーバー全員をランチに招待された。