インド、ウッタル・プラデーシュ州サンキサ
今朝ダライ・ラマ法王は、車でサンキサの遺跡に向かわれた。法王は、かつて仏塔であったと推察される塚の前で短い祈りを捧げられ、そして地元の人びとに挨拶を返された。
法王はインド青年仏教会(The Youth Buddhist Society of India:YBS INDIA)の敷地に到着されると、まず仏教をテーマにした絵の展覧会の開会式に臨まれ、次に設立予定の診療所の礎石の除幕式と学校の定礎板の除幕式を執り行われた。そしてすでに建立された本堂内の仏像に礼拝された。
法王は法話会場に到着されると、チベット舞台芸術団(TIPA)のグループによる伝統的なチベット・オペラの歓迎を受けられた。法王が記念撮影に応じられると、チベットやアルナーチャル・プラデーシュ出身者を含むアーティストたちはとても嬉しそうだった。
法王は巨大なテント内のステージに上がられて、YBS INDIA 会長のスレーシュ・チャンドラ・バウダ氏の歓迎を受けられると、吉祥を象徴するランプに火を灯して仏陀釈迦牟尼像に礼拝し、着座された。学校の制服を着た地元の生徒たちがステージに上がり、ひざまづいてパーリ語で『吉祥経(マンガスートラ)』を唱えた。
法王は1万5千人を越える聴衆に向かって次のようにお話を始められた。
「まず、明るい声でお経を唱えてくれた生徒たちに感謝したいと思います。あなたたちは21世紀に属する世代ですが、私たち高齢者の多くは20世紀に属する世代です。振り返ってみると20世紀はあまりにも多くの暴力が駆使され、とても多くの命が犠牲となりました。それらの損失がより善い世界を創り出すことに貢献したならばその犠牲も正当化されたかもしれませんが、実際にはそうではありませんでした」
「さて、主催者の方々からこの聖なる場所で、私に説法をして欲しいという要請があり、この法話会が実現することになりました。尽力してくれたすべての方々に感謝いたします」
「このところ僧侶や尼僧、その他の宗教の信者たちに会うといつも質問するのですが、技術的、物質的にかくも発展を遂げた今日、この時代に、宗教は今なお私たちに必要なものなのでしょうか?最も物質的に発展した先進国を見ても、人びとはいまだ精神的に動揺しています。とても多くの人びとが感情的な危機に直面するような時代には、人は容易に暴力に走ってしまいます。軍需産業界が繁栄し、広範に武器が売られ、壊滅的な暴力の危険性が高まってしまうのです。そこで、そのような感情的危機を乗り越えるためには、一人ひとりが心の平和を築くことが必要とされています」
法王は『入菩薩行論』の本を取りあげて、次のように述べられた。
「もちろん、私は一人の仏教徒で、仏教哲学と心理学を広範に学んできました。しかし、純粋に学術的な観点から仏教の概念や教えを考察することは十分可能であると思っています。このテキストは人びとの心を鎮めるために非常に役立つものです。意識を持つ生きものとして、私たちは容易に欲望や憎しみ、無知の影響を受けてしまいます。欲望などが私たちの知性を圧倒すると、人は皆本当に不幸になってしまいます。先に述べたように、私たちの知性の産物である強力な武器は、ただ他者を破壊するためにしか使われません。私たちは自分の動機によって、喜びを創り出すことも大混乱を引き起こすこともできるのです」
「このテキストの第6章は忍耐について、第8章は利他心を育むことについて説かれています。全体を読み通す時間はありませんが、その内容を簡潔に説明することはできるでしょう」
「第9章は智慧について説かれており、次の偈によって始まっています」
「仏陀は始めから、有情の苦しみをなくすことを願っておられました。そしてご自身の経験から、苦痛に基づく苦しみ(苦苦)、変化に基づく苦しみ(壊苦)、遍在的な苦しみ(行苦)は、すべて煩悩から生じると説かれています。これらの苦しみは無知、つまり現実のありようを誤って理解していることに根ざしており、最終的な対治方法は空を理解する智慧なのです」
次に法王は、戒律・禅定・智慧という三学の修行方法について説明された。古代インドにおいては、欲界の幸せを得るだけでは最終的な満足を得られないという考え方が行き渡っており、その解決法として、色界、無色界というより高いレベルの禅定の境地に至ろうとする者もいた。しかし、釈尊はその代わりに、独立自存の永遠なる自我が存在するという考えを否定することに焦点を当てられた。釈尊の説かれた無我の見解とは、粗いレベルの煩悩だけでなく、煩悩の習気(残り香)というより微細なレベルの汚れ、つまり所知障を滅尽する対策となるものである。それを効果的に行うには、菩提心と結び合わせて無我を理解する必要がある。
「釈尊は第三法輪において、“他のものに依存せず独自の力で存在する事物は存在しない” という空の見解について、一切の現象を遍計所執性(実体があるかのように妄分別された現象のありよう)、依他起性(他のものに依存して生起する現象のありよう)、円成実性(円満なものとして達成された現象のありよう)という三つのカテゴリーに分類して説かれました。さらに、第三法輪で説かれた教えの一部がまとめられている『如来蔵経』には仏性について説明されており、対象物の空と、仏性としての主体者の心の空に言及されています」
「釈尊は初転法輪において、四つの聖なる真理(四聖諦)のそれぞれの本質、機能、結果について説かれました。苦しみは望ましくないものですが、原因と条件によって生じることを明確にされ、苦しみの止滅の境地(滅諦)を、一切の現象には固有の実体が存在するという捉われ、つまり無知を晴らす対策となる空の智慧に基づいて説かれました」
また法王は、次のように指摘された。
「マイトレーヤ(弥勒)の『究竟一乗宝性論』には、すべての現象の現われは究極のもののありよう(真如)ではないと述べられていますが、量子物理学者たちも、すべての対象は観察者に依存しているため、独立して客観的に存在する対象は何もないと述べています。しかし量子物理学者たちは、その観察者自身は独立した客観的存在であると考えて、それには疑問を抱かないようです」
「『入菩薩行論』第9章第2偈には、『究極の真理は〔凡夫の〕心の対象ではなく』とありますが、これは、究極の真理が二元的な現れを持つ世間の人々の心の対象ではないことを示しています。第3偈に「通常の人の世間は、ヨーガ行者(修行者)の世間によって否定され」とあるのも、二元論的な現れのない修行者の心に言及しているのです」
法王は、空性とは何らかの現象を土台として、その上にのみ成り立つ本質であると明確にされた。『般若心経』には、『色即是空 空即是色』(色は空であり、空もまた色である)と述べられている。さらに、色(物質的存在)に続いて、受(感受作用)、想(識別作用)、行(形成力)、識(認識作用)も同様に空である、と続いている。法王は、無知とは何にとらわれている心なのか、そしてそれが誤った考えであると理解することが必要であることを強調された。これについては、菩薩の修行である六波羅蜜の文脈から理解することができる。
最後に法王は、シャーンタラクシタ(寂護)によってチベットにもたらされたナーランダー僧院の伝統は論理学に基づいているため、科学的な方法論であると指摘された。このところ法王は仏教徒に対して、仏陀が何を説かれ、仏陀(師)、仏法(仏陀が説かれた教え・真の帰依の対象)、僧伽(修行道の実践を助けてくれる出家者の集団)の三宝に帰依するとはどういう意味なのかを理解する21世紀の仏教徒であれとアドバイスされている。
法王はここで法話を終えられ、昼食をとられた。明日、引き続き『入菩薩行論』の法話が再開される予定である。