日本、千葉
曇りがちな日曜日の朝、ダライ・ラマ法王は新たに設立された文化交流センター、知恵ゲツェ・リン文化交流の開所式典と法話会にご出席のため、休日の比較的空いた道を千葉県市原市へと車で向かわれた。会場に到着された法王は、モンゴル人とチベット人のアーティストたちによる演奏と、チェマル・チャン・プーと呼ばれるツァンパ、バター、大麦酒の供物によりチベットの伝統的な歓迎を受けられた。そして、庭で記念植樹をされてから建物の中に入り着座されると、マンダラと仏陀の身口意の象徴が法王に捧げられた。
法王は再び外に出られ、主要施設兼、本堂として使われる「ゲル」というモンゴル式テントの中に案内された。法王はカタ(チベット伝統の白いスカーフ)の結び目をほどいて扉を押し開くという落成を意味する一連の儀式に従って他の僧侶たちと共に吉祥偈を唱えられ、モンゴル式テント内に設置された仏陀釈迦牟尼像の前でバターランプに火を灯された。法王が着座されると、4名の若い女学生が微笑みとともに歩み出て、法王に白いカタを捧げた。
法王は次のようにお話を始められた。
「私はこのようなフェルト製テントの中で法話を行なったことはありませんが、ダライ・ラマ3世がモンゴルへ赴かれて釈尊とジェ・ツォンカパの教えを広めたときにゲルの中で法話をされたことがあるでしょうし、ダライ・ラマ13世もそういう経験があるのではないかと思います」
「過去において、チベットとモンゴルの間には強いつながりがあり、国境も明確には定められていませんでした。最初にシルクロード経由で到来した仏教は、チベット仏教サキャ派の座主パクパがクビライ・ハーンおよびその子孫の師となったときに普及しました。後に、ダライ・ラマ3世ソナム・ギャッツォが招聘を受けてモンゴルで教えを説かれ、アルタン・ハーンからダライ・ラマの称号を贈られました」
「私は現在の青海省にあるクンブム僧院の近くで生まれましたが、その僧院の学僧の大半はモンゴル人でした。私がラサで学んでいたとき17人の問答の助手がいましたが、彼らは皆デプン僧院、ガンデン僧院、セラ僧院から選ばれた僧侶たちでした。その中でもっとも優れていて、私が最も影響を受けたのが、内モンゴルのアバク地方出身のグドゥップ・ツォクニ師でした」
法王は内モンゴル出身者と外モンゴル出身者に挙手を求められ、それぞれ12人と15人であることを確認された。その他の参加者の大半が日本人であったため、法王のお話はすべて日本語に通訳された。
「ダライ・ラマ13世は1904年にモンゴルへ赴き、モンゴル語を上手に話されていました。グドゥップ・ツォクニ師が話してくれたことですが、彼がダライ・ラマ13世から比丘戒を授かったとき、儀式の一部に下衣のプリーツをたくし上げるというのがあったのですが、彼はまだその頃チベット語がよく分からず途方に暮れていると、ダライ・ラマ13世がモンゴル語で説明して下さったそうです」
「モンゴル人のロブサン師は最終的にインドへ逃れることができました。彼はラサの貴族階級の人々と麻雀をすることでも知られていました。名だたる僧院のモンゴル人学生が経済的に困っていると、ロブサン師がラサに赴いて麻雀をし、儲けたお金を持ち帰って与えたと言われています」
「また、ダライ・ラマ13世の在位中には、カルカ・デンバという名のモンゴル人の学僧がもう一人いました。彼はテキストのページを開いて仰向けに寝て、同じページを繰り返し読んでその意味を沈思黙考するのが常でした。13世の家庭教師であったプルバ・チョク師がカルカ・デンバ師に、“あなたは文殊菩薩の化身であるとお聞きしましたが” と言うと、デンバ師は、“いいえ違います。私はただの隣人です” と答えたそうです。残念ながら、その後スターリンによる大粛清によってモンゴル人の学僧たちがチベットに来るという流れがすっかり途絶えてしまいました」
「1979年にソビエト連邦と中国の関係が悪化した際、私は初めてモンゴルを訪れることができました。当時、外では宗教の自由はありませんでしたが、ガンダン・テクチェンリン僧院の僧侶たちは僧院内で自由に修行していました。彼らは私の長寿祈願法要をしてくれて、マンダラ供養の儀になると、彼らの誦唱があまりにも熱のこもったものだったので、私も共に涙してしまいました。彼らのように齢を重ねた僧侶たちは命を賭して僧院を守りました。やがてソビエト連邦が崩壊すると、自由が回復されました」
「また別の訪問時には、ナーランダー僧院の17人の成就者たちのタンカ(仏画)を僧院に贈りましたが、最後に訪れたときにはそのタンカが見当たりませんでしたので、どこにあるのか尋ねたところ、まだ巻かれた状態で経典と共に隠されていたのです。私は、私がいないときには法座の上にそのタンカを飾ることを強く勧めました。そうすれば、勉学に励むことを常に意識することができるからです」
続いて法王は次のように説明された。
「昔からチベットでは、“世界の荘厳たる6人と至高なる2人” として尊敬されてきた8人の偉大なインド人導師たちがおられましたが、そこには現在でも真摯に学ぶべき重要な論書を記された導師たちが含まれていませんでした。そこで私は、ナーガールジュナ(龍樹)、アーリヤデーヴァ(提婆)、アサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)、ディグナーガ(陳那)、ダルマキールティ(法称)、グナプラバ(功徳光)、シャーキャプラバ(釈迦光)という当初からの偉大な8人の導師たちに、ブッダパーリタ(仏護)、バーヴァヴィヴェーカ(清弁)、チャンドラキールティ(月称)、シャーンティデーヴァ(寂天)、シャーンタラクシタ(寂護)、カマラシーラ(蓮華戒)、アーリヤヴィムクティセーナ(解脱軍)、ハリバドラ(獅子賢)、アティーシャという9人の偉大な導師たちを加えて、『三信心の解明といわれるナーランダー僧院の17人の成就者たちへの祈願文』を書き、その仏画の制作を依頼したのです」
「初転法輪はすべての弟子たちに開かれて説かれた教えであり、その後記録されて広く受け容れられました。このとき説かれた教えは四聖諦(四つの聖なる真理)とヴィナヤ(戒律)についての基本的な教えでした。第二法輪では般若経にまとめられている般若波羅蜜(完成された智慧)の教えが、清らかなカルマをもつ限られた弟子たちに対して説かれました。ナーガールジュナの著作やマイトレーヤ(弥勒)の弥勒五法と言われる5つの著作の中に、これらは確かに釈尊が説かれた教えであることが正しい根拠とともに述べられています」
次に法王は、聴衆に和訳が配布されていたゲシェ・ランリ・タンパの『心を訓練する八つの教え』の解説に移られて、次のように説明された。
「7世紀になると、チベット人は仏教にある程度の関心を示すようになりましたが、8世紀にシャーンタラクシタ(寂護)が招聘されて以来、ナーランダー僧院の伝統を真剣に実践するようになりました。これが仏教の前伝期に当たります。しかし、9世紀の後伝期になると、チベットの仏教王と呼ばれたティ・レルパチェンが暗殺され、弟のラン・ダルマ王は、中央チベットに一人の僧侶の姿も見なくなるほど仏教を廃絶し、チベットは小国に分断されてしまいました」
「その後アティーシャがチベットに招聘され、チベット人のドムトンパがアティーシャの主な弟子となりましたが、ドムトンパにはポタワ、プチュンワ、チェンガワの3人の弟子がいて、それぞれがアティーシャの一連の教えを受け継ぎました。ポタワは、アサンガの『菩薩地』、マイトレーヤの『大乗荘厳経論』、シャーンティデーヴァの『大乗菩薩学論』と『入菩薩行論』、ジャータカ物語として知られるアーリヤシューラの『本生譚』、仏陀のお言葉の論集である『法集要頌経』というカダム派の六論書に焦点を当てた聖典派の系譜を維持しました」
「チェンガワはカダム秘訣派の導師であり、また、入門から悟りに至るまでの修行道の段階(ラムリム)の教えの系譜を引き継ぎ、プチュンワは弟子が実践しやすい一連の短い秘訣の教えを引き継ぎました」
「聖典派におけるテキストの伝授は中央チベットでは失われてしまいましたが、シャーンティデーヴァ (寂天)が著した『入菩薩行論』の伝授をクヌ・ラマ・リンポチェがカムで授かられ、そしてリンポチェが私に伝授してくださいました。それ以来、私は一連の教えにある残りのテキストを復活させ、それを学ぶように奨励してきました」
「『心を訓練する八つの教え』にある最初の7つの偈は、いかにして慈悲の心を育み菩提心を生起させるかという教えであり、最後の第8偈は、智慧についての教えです。第1偈は、有情たちから受けてきた深い恩を思い起こすための教えです。たとえば、戒律・禅定・智慧という三つの高度な修行(三学)の第一である持戒は、他の有情に依存することによってのみ実践することができるからです」
「第2偈では、常に謙虚な姿勢を保つべきことについて説かれています。しかし、他者を助けるうえで謙虚さには勇気と自信が求められますから、自分にはとてもできないと落胆すべきではありません。第3偈では、自分の心をよく観察し、怒りなどの悪しき感情が生じた場合はすぐに対策を講じるべきことが勧められています。第4偈は忍耐の勧めであり、第5偈、第6偈、第7偈では、たとえ他者からひどいことをされたとしても、負けは自分が引き受けて勝利を他者に譲るべきことが説かれており、敵に対しても忍耐の機会を与えてくれた恩深き師であるとみなし、他者の苦しみを引き受けて自分の幸せを与えるというトンレンの修行を実践するべきことを説いています。最後の第8偈は、あらゆる現象は幻であり、独立した実体など微塵も存在しないことを深く考えるべきことが述べられています」
法話会が終了し、ミュージシャンのテンジン・チョーギャル氏が歌とダムニェン(チベットの弦楽器)の演奏をし、モンゴル人と日本人のアーアティストたちが馬頭琴と太鼓そして歌で、観音菩薩の真言「オーム・マニ・ペーメ・フーム」にちなんだ素晴らしいパフォーマンスを披露して今日のイベントを締めくくった。
その後法王は、来賓や主催者たちと昼食を共にされ、車で東京に戻られた。明日法王は、麗澤大学で一般講演をされる予定である。
『心を訓練する八つの教え』ゲシェ・ランリ・タンパ(1054 - 1123)
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