ドイツ、ダルムシュタット
昨日の朝ダライ・ラマ法王は、チベット人や他の国の支援者たちに見送られながらロッテルダムを出立された。法王は1時間弱のフライトでフランクフルト空港に到着され、そこから車でダルムシュタットに向かわれた。
今朝、エルンスト・ルードヴィヒ・プレイス近辺の建物の屋根に朝日が当たり始めた頃、ダライ・ラマ法王が乗られた車はダルムシュタッティウム会議場に向かっていた。法王は会議場の建物の前で車を降りられると、元ポーランド大統領のレフ・ワレサ氏、チベット・イニシアチブ・ダルムシュタットのヴォルフガング・グラダー氏、ヘッセン州財務大臣のトーマス・シェーファー氏、ダルムシュタット市長のヨッヘン・パルチ氏など、チベット非暴力の抵抗についての会議に参加するパネリストたちに出迎えられた。法王とパネリストたちが会議場のステージに登壇すると、客席からは大きな拍手が起こった。
会議の開会宣言がされた後、チベット・イニシアチブ・ダルムシュタットのヴォルフガング・グラダー氏が会議について簡単に説明した。トーマス・シェーファー財務大臣は、法王に向かって「非暴力的アプローチが有効な手段であることを示されている法王は、私たちのインスピレーションの源です」と告げた。そして、この会議開催に尽力し、著名なチベット支援者であるダルムシュタット市長のパルチ氏を招いたヘッセン州議会に謝意を表した。
パルチ市長は、「3人のノーベル平和賞受賞者をお迎えして開かれるこの重要な会議を、ダルムシュタットで開催することができて大変光栄です。同時に、そのことによって多少の政治的圧力がかかるかもしれませんが、ここでのチベット支援活動が、チベットでの抗議運動のように私たちを生命の危険にさらすことはありません」と述べ、ドイツ連邦共和国の基本法であるドイツ憲法と、国連憲章の人権に関する項目を対比させて、ドイツの基本法第1条は「人間の尊厳の不可侵」をうたっていることに言及した。
グラダー氏は、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ダライ・ラマ法王のノーベル平和賞受賞が皆1989年に起こり、その年は転機の年になったと述べ、人権と人間の尊厳の厳守を促進することの大切さを強調した。最後に、チベット・イニシアチブ・ダルムシュタットの中で最も敬愛されていた創設メンバーの一人であるツェワン・ノルブ氏が数週間前に急逝し、皆がその死を悼んでいることを告げ、会議を紹介するスピーチを終えた。
会議のモデレーターで、有名なジャーナリストであるドゥニャ・ハヤリ氏は、暴力と非暴力というテーマは、自身が権力の濫用と共に興味を持って取り組んでいる主題であると語った。ハヤリ氏は、法王にお目にかかれた喜びを表明してから、パネリストたちに向けて「非暴力的アプローチはどうすれば有効に働くか?」「暴力的手段に終止符を打つ適切な方法は何か?」といった質問を投げかけた。
まずハヤリ氏は、ベオグラード出身のセルビア人、シニシャ・シクマン氏に意見を求めた。シクマン氏は次のようにスピーチを始めた。
「皆さんにタシデレ(こんにちは)とご挨拶を申し上げます。私はセルビア出身で、友人たちと共にミロシェビッチ政権に対する非暴力の抵抗運動を行いました。この抵抗運動によって連帯し、それを実行すれば、非暴力というアプローチ方法によって成功を収めることができるということを世界に証明することができたのです。そこで私たちは成功に導くための3つの原則を案出しました。それは、連帯、計画、非暴力の訓練の3つです。計画とは、何がしたいかではなく、何ができるかを精査することで、非暴力の訓練とは、抗議運動中に愚かにも石を投げたりする者が現れないように、そのような衝動を制止する訓練のことです。そして、もう一つの大切な要因に、ユーモアのセンスを持ち続けることが挙げられます」
中央チベット政権情報・国際関係省(the Central Tibetan Administration:DIIR / CTA)事務局長のダルドン・シャルリン氏は、1949年に中国人民解放軍がチベットに侵攻し、軍事的占領が始まるまで、チベットは独立国家であったことを説明した。1959年に法王がインドに亡命され、その後、インドで民主的な中央チベット政権が樹立された。シャルリン氏は、中国はチベットの全面的支配を確立しようとして残忍な弾圧を繰り返し、1959年、1980年代と2008年には、そのような弾圧に抵抗するためにチベット民族が蜂起したことを語った。
シャルリン氏は、チベット人が神聖なものとして大切に守ってきた土地が採掘されようとした時に、32人のチベット人が抗議したことを例に取り、チベット民族の抵抗運動がどのように続いているかを説明した。シャルリン氏は、非暴力的抵抗とは、ただ受動的に事態を静観することではなく、行動を伴うものであることは明らかであると述べた。そして氏の横にいる僧侶の方を向いて、「ここにいるゴロク・ジグメ氏は諦めていません。私たちも決して諦めません。ここで私たちが享受している自由を、ジグメ氏のような活動をしている人々を支援するために行使しなければなりません。事態を変えるために行動しましょう。仲間に加わってください」と聴衆に呼びかけた。
会議のモデレーターを務めるハヤリ氏は、法王に、マハトマ・ガンジーの「非暴力的抵抗は強力な武器である」という言葉をどう思われるかと尋ねた。
それに答えて法王は次のようにスピーチを始められた。
「兄弟姉妹の皆さん、この会議に参加できて大変光栄に思います。人々は暴力の横行によって多大な損害を被り、平和への希求は年々高まってきています。それを実現させるためには現実的な方法を取らなければなりません。科学者たちが人間の基本的性質は思いやりの気持ちであると立証したことを考慮する必要があります。問題を解決するために、多くの暴力的な手段が使われてきましたが、それによってどのような善い結果が得られたというのでしょう?善い結果が得られることなど決してなく、益々憎しみが増すばかりです。暴力的手段は問題解決の正しい方法ではありません」
「私はEU(欧州連合)の精神がどれほど素晴らしいものであるかを、多くの人たちによくお話ししています。友人で、私の物理学の先生と言っても過言ではないカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー氏は、彼が子どもの頃、フランスとドイツはお互いを仇同士としてしか見ていなかった、と話してくれました。そのような状況が第2次世界大戦後にすっかり変わったのです。『私たち』『彼ら』と差別して考えると暴力が起こりますが、今やヨーロッパの人々は皆一つの共同体に属しています。EUが発足してから、ヨーロッパでは何十年も平和が保たれています」
「20世紀の初頭と終わりを比べると、戦争と暴力に対する人々の考え方が完全に変化しました。20世紀が終わりに近づくにつれ、人々の態度が成熟し、暴力的アプローチを支持し、力に訴える方法は影をひそめてきました。それを更に進めて、私たちは今世紀を対話の時代にしなければなりません。徹底的な話し合いによる問題解決を押し進めていくべきです。そしてまた、非武装化を現実的な目標に据える必要があります」
「ノーベル平和賞受賞者世界サミットの開催国が南アフリカ共和国からローマに移った際、私たちは核兵器の削減と廃絶について話し合いました。私はタイムテーブルを作って原子力の削減と廃絶を具体的に進めていくことを提案しましたが、何の進展もありませんでした。私たちは非武装化した、核兵器のない世界を目指さなければなりませんが、武装解除のためには、まず心における武装解除を成し遂げなければならないことを心に留めておくべきです。社会的動物である人間は、誰もが自分の住んでいる共同体に依存して生きていくしかないのです。ヨーロッパもまた、それ以外の地域の国々に依存しています。平和的関係の維持には非暴力的アプローチと世俗の倫理が欠かせません」
イラク国立交響楽団の元指揮者で、芸術を通した平和財団(the Peace Through Arts Foundation)創始者のカリーム・ワスフィ氏は、爆撃や他の暴力行為が行われている現場でチェロを演奏することで知られるようになった。ワスフィ氏は壇上で特別な間奏曲の演奏を披露した。
ここで、ハヤリ氏はパネリストたちを紹介した。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のリーダーを務め、その活動によってノーベル平和賞を受賞したレベッカ・ジョンソン氏は、非暴力化と核廃絶のための活動をライフワークとしている。ドイツ連邦議会副委員長のクラウディア・ロート氏は同盟90/緑の党の代表であり、チベット問題の気骨ある支援者であって、地球温暖化問題キャンペーンに取り組んでいる。レフ・ワレサ氏は自治労組「連帯」を率い、後にポーランドの大統領を務めた。
ハヤリ氏は、ダライ・ラマ法王が1987年9月21日に5項目和平プランを提唱されたことに触れ、それが正しい方向を示す和平案であると今でもお考えかどうかを尋ねた。
それに対して法王は次のように返答された。
「私たちは地球規模で人々が多くの苦しみに直面するのを見てきました。第2次イラク(湾岸)戦争が勃発する前には、世界中から数百万の人々が、更なる軍事行動を行わないようにと抗議運動を起こしました。第2次世界大戦後の廃墟の中から立ち上がったドイツと日本が平和宣言を行ったこともとても印象に残っています」
「チベットに関して言えば、17か条協定が締結された後、1956年にカム地方(東チベット)で、1957年にアムド地方(北東チベット)で、そして1958年から59年にかけてはチベット全土で暴動が起こり、1959年3月にはラサの住民すべてが蜂起しました。私の命に関わる脅威があったため、一旦南チベットに逃れて、そこから人民解放軍との更なる交渉を続けようと考えて、私はラサを後にしました。しかし私たちがラサを去るやいなや、人民解放軍はラサを爆撃し、最早交渉の機会はなくなってしまいました」
「パンディット・ネルー氏は反対でしたが、私たちは国連に何度かチベット問題を提起しました。しかし効果はありませんでした。私たちは1974年初めに独立を求めない方針を定め、1978年には鄧小平氏が、独立要求以外に関してなら話し合う用意がある、と言明しました。このような状況から私たちは、相互の利益を尊重する中道のアプローチを発展させたのです。このアプローチは非暴力に根ざしているため、中国の知識人や仏教徒たちに支持されました」
レフ・ワレサ氏は、チベットが中国の支配から自由になることと、ソビエト連邦が崩壊すること、この二つのうちのどちらが、より起こりそうにないと人々に思われていたか、と尋ねた。ワレサ氏の意見では、一般的に言って、ソ連が崩壊するなどとは、当時、誰も想像だにしなかった。しかしワレサ氏は連帯の抗議運動の只中で、敏腕なドイツ連邦共和国外務大臣ハンスディートリヒ・ゲンシャー氏に対して、ベルリンの壁が崩壊するだろうと警告したことを思い起こした。
ワレサ氏は続けて次のように述べた。
「しかしそのような時代は終わりを告げ、今の資本主義は大きな経済格差を生む、全く不平等なシステムと化しています。同時に現ポーランド政権は民意を反映せず、民主主義にそぐわない体制になっています。それに対して我々ができることは何でしょうか?私たちは次の選挙を待たなければなりません」
核兵器廃絶国際キャンペーンのリーダーのジョンソン氏は、1970年代に起きた女性の権利拡大を求めるデモ行進のことを思い起こした。後にその女性たちは連帯を支持して行進した。そして次に、チベットの支援に立ち上がった。やがて彼女たちはグリーナム・コモン軍事基地などで核兵器配備に反対する女性平和キャンプを始めた。
レベッカ氏は次のように語った。
「チベットの人々が今も決然としているように、その時の私たちの意志も固かったのです。チベットに自由をもたらすことができたなら、それは非暴力的アプローチの生きた成功例となるでしょう。非暴力的アプローチとは受動的な態度ではなく、行動することなのであり、それは正しいことを実行することです。私たちはその方法を用いて核兵器の継続的保有に反対しています。核保有国に対して廃絶を促す働きかけを続けなければなりません」
ドイツ連邦議会副委員長のクラウディア・ロート氏は、ペトラ・ケリー氏から法王を紹介されたと聴衆に述べてから、チベット問題を常に人権問題の見地から考えている、と語った。ロート氏は、法王が平和と非暴力を決して断念されないことに触れ、平和と人権擁護を確立し、軍事化と武器への依存に終止符を打つために、世界は法王のようなビジョンを持つ人々を必要としていると述べた。
ロート氏は次のように語った。「私は愛と慈悲の力がどれほど有効であるかを法王から学びました。憎しみには愛と慈悲の力で対処することが必要です。冷淡で孤独感を持つ人々に対して、私たちはあたたかい心を育まなくてはなりません」
ハヤリ氏は難民についての法王のお考えを尋ねた。法王は、自国で危険にさらされている人々が逃れてきたとき、その人々に支援の手を差し伸べることが適切であると述べられた。そして法王は次のように続けられた。「現在ドイツには約100万の難民がいるのでしょう?彼らはメルケル首相の主唱により迎えられたのではありませんか?」
「皆さんには皆さんの文化や見識、生活様式があるでしょう。それと同様に、難民には皆さんとは異なる文化、風土、生活様式があります。彼らに避難場所を提供し、子どもたちに教育を与え、若者には、時が来て自国に帰れるようになった時に国を再建するための実践的な指導をしてください。チベット難民は15万人いて、私たちは皆心の底で、いつか国に帰ってチベットを再建したいと願っています。ですからもう一つの考慮すべき要素は、難民たちの祖国に平和が回復するよう支援することです。私は今世紀末までには、国境などたいした意味をもたないような世界になっていることを願っています」
短い質疑応答セッションの後で、法王がパネリストの一人ひとりに感謝を込めてカタ(幸せを祈願するチベット伝統の白いスカーフ)を贈られると、1,500人の聴衆から拍手喝采が起こった。法王はパネリストたちと昼食を共にされ、その後ホテルに戻られた。
明日、法王はハイデルベルグで行われる行事に出席された後、スイスに向かわれる予定である。