インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
東アジアと東南アジアグループの仏教徒に向けて行われた今年の法話会は、本日で最終日を迎えた。ダライ・ラマ法王は、ツクラカン本堂の法座の前に準備された椅子に座られ、参加者たちからの質問に応じられた。
法王は、法(ダルマ)の真の意味はあたたかい心を育むことであるとの説明でお話を始められた。
「もしできることなら他者の役に立つことをするべきですが、それが無理なら、少なくとも他者に害を及ぼすことは避けてください。それなら、どのような職に就いていようとできるはずです。仏法の修行を日常生活の一部にすることが大事です。それは、単に目を閉じたり人里離れて暮らしたりすることではありません。また、金銭的な収入を得ることは間違ったことではなく、生きていくために必要なことです。金銭に恵まれず、教育も受けられない人々も多くいますが、そのような人々に対して手を差し伸べることができるからです。思いやりの心を持ち、誠実であるように心掛けてください。そして、できる限り他者を助けることです」
「修行において活力を維持するのは自分次第であることを認識する必要があります。釈尊は、“仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない、その手で有情の苦しみを取り除くこともできない、自ら得た理解を他者に与えることもできない。ただ、真如という真理を示すことによって有情を救済されている” と説いておられます。自分の心と感情を努力してよりよく変容させることが鍵となります。もちろん、神を信じるなら神に祈ることもできますが、釈尊は自分の心と感情によき変化をもたらす責任を弟子たちの手に委ねられたのです」
「ひとつの場所に留まりながらも他者の役に立つにはどうしたらいいか」と尋ねた参加者に対しては、法王は次のように答えられた。
「顔見知りの中には、あなたに気まずい思いをさせる人がいるかもしれませんが、その人たちもあなたと同様に幸せでありたいと願っていることを忘れないでください。そうすれば、その人たちをもっと思いやることができるでしょう。そのようにして、今日の世界に暮らす70億人の人類すべて、ひいては生きとし生けるものすべてに、思いやりの心を広げていくことができます」
「ひとつ例を挙げましょう。ラサにおけるチベット民族蜂起50周年記念日の2008年3月10日に、チベット本土に暮らすチベット人が抗議運動を実施する予定だというメッセージを受け取りました。私は、その抗議は厳しい結果を引き起こすのではないかと危惧しました。抗議が鎮圧されて、さらなる苦悩を招くのではないかと恐れたのです」
「私はその時、中国政府当局の役人たちを目の前に思い浮かべて、彼らも苦しみを望まず、幸せを望んでいるにもかかわらず、怒りと無明のせいであらゆる抗議運動を厳しく弾圧するだろうと思いました。そこで、私は心の中で、彼らの怒りや憎しみ、無明を自分が受け取って、代わりに平穏な心と幸せを彼らに与えているという観想をしたのです。もちろん実際の状況は何も変わりませんが、私自身の心の平穏は取り戻すことができました。このように、いつも問題を引き起こす人々も私たちと同じ人間であることを忘れないことがとても役にたつのです」
別の参加者から「悪いニュースを目にすると自分の心の平穏を保つために目を背けてしまいがちですが、どうしたらいいのでしょうか」との質問に、法王は次のように答えられた。
「苦しみについてのニュースには確かに動揺させられますが、自分が何もできないと思うのは間違いです。私たちが直面する多くの問題は、自分たち自身が作り出したものです。私たち人間は友人を必要とする社会的動物ですので、せめて他者に対して微笑みかけ、あたたかい心で応じることくらいはできます。それだけでも状況は改善されていきます」
「現代の教育は物質的な向上を目標としていますので、子どもたちは小さい頃から手に触れるモノに満足を覚え、物質的欲求の充足を求めて育ちますが、どのようにしたら心の平穏を得られるのかは知りません。古代インドでは、『止』(高められた一点集中の力)と『観』(空を理解する鋭い洞察力)を養うことで、心の働きについての理解が深まると考えられていましたが、現在でもこれは非常に有益な方法です」
「この世の創造主としての神にあらゆることを委ねて祈りを捧げるという、ユダヤ教とキリスト教に共通の伝統には敬意を抱いています。しかし、インドでは様々な宗教が生まれ、その中の一つである仏教では、結果として生じる事象は私たちのなした行いによって決まると説かれています。したがって、自分の責任において、悪しき感情(煩悩)と向き合わなければなりません。修行を積むことにより、自分自身の心をよりよく変容させる必要があるのです」
「怒りっぽい人でも常に怒っているわけではないことは誰もが知っています。それは怒りが人間の心に常に存在するものではないからです。もし、常に怒りが心に存在するとしたら、私たちにできることはほとんどありません。怒りは時に執着心と密接な関係にあり、怒りも執着も間違った見解と無明によって生じます。私たちは人間の知性を働かせてこれらを根絶することができます。もっと広い見地に立って物事を見ることにより、世俗の人間的価値観と新鮮な視点を持った新しい世代を育成していく必要があるのです。そのためには、今この時から取り組み始めなければならないということに、教育者の方々も賛同して下さっています」
「私はインド人の友人たちによく言うのですが、過去においてインド人は私たちの師匠であり、チベット人は弟子でした。しかし、チベット人は信頼に足る弟子であることを証明し、育んだ智慧を現在まで大切に維持、継承してきました。一方、英国によって課された教育システムの影響もあって、インド人はこの豊かな古代からの智慧を軽視してきました。だからこそ、私は今、現代のインドにおいて古代インドの智慧を復活させようと推奨しているのです。今年に入ってインドの大学の副総長の方々150名にお会いしましたが、私の考えに心からの関心を示してくださいました」
「心と感情の働きについての古代インドの智慧を現代のインドで復活させることができたなら、次のターゲットは伝統的に仏教国である中国です。玄奘三蔵がインドへ来られたとき、ナーランダー僧院で学ばれましたが、今日、多くの中国の方々が仏教を身近に感じておられます。実際、数年前に中国内には約3億人の仏教徒がいると北京大学が推計しましたが、それより前に私が聞いた数より増えていました。人々がもっと正直で自制心を持っていたなら、中国における汚職や腐敗をなくす努力はもっと報われていたはずです」
「インドと中国を合わせた25億人の人々が、現代教育と古代の智慧をうまく結び合わせ、その両方から良い影響を受ければ、世界中に良い影響を及ぼすことができるでしょう。しかし、それは私がこの目で見ることのない将来のことです。それでもなお、私は実践が重要だと信じています。武力行使は時代遅れで無力です。私たちは武装解除した世界の実現を目指すべきです。武器は人を殺傷するために作られたものであり、建設的な解決に導くことはありません。紛争や問題が起きたなら、対話を通して適切に解決することを学ばなければならないのです」
韓国人の尼僧が究極の菩提心について質問すると、法王は「関心があるなら学ぶべきです」と答えられ、ナーガールジュナ(龍樹)が『根本中論頌』の中で述べられている次の偈に注意を払うよう助言された。
「私は14、5歳の頃に空に興味を持ち始め、徹底的に学びました。しかし、30歳になってようやく理解したと思われる体験がいくつかあっただけでした。私の主な修行は、利他心を養うことと空を完全に理解することです。そのためには、仏法を聴聞し学ぶこと、学んだことについて繰り返し考えること、何度も考えて確信を得た理解を、瞑想を通して心になじませることが必要です。私はダライ・ラマという名前を持っていますが、どのような洞察であれ、私が得た洞察は私自身の修行の結果ですので、私からみなさんへの祝福は、大いに学ぶことを奨励することなのです」
今日の質疑応答で、今年の東アジア・東南アジアグループ主催の法話会が終了し、法王はいくつかのグループに分かれた参加者たちとの写真撮影に応じられた後、法王公邸に戻られた。10日の月曜日に法王はヨーロッパに向けて出発され、スウェーデン、オランダ、ドイツ、スイスでの行事や講演会に臨まれる。