インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝ダライ・ラマ法王がツクラカンに到着し、着席されると、午前の部の司会を務めるダニエル・ゴールマン博士からの「昨夜はよく眠られましたか」との問いに、「少し疲れていましたがよく眠れました。もちろん、眠っている間も夢の中で分析をしていますよ。何も考えず、リラックスしている時間は脳の潜在能力を無駄にしていると思いますからね」と笑って答えられた。
ゴールマン博士は法王に、今日はロバート・ローザー博士、マチウ・リカール博士、ソナ・ディミジアン博士の3人が倫理観と慈悲の心を育む教育に関連して進行中の研究についてプレゼンテーションを行うことになっているが、それに先立って、世俗の倫理教育を提唱されている法王に、世俗の倫理の意味と、それが21世紀になぜ重要なのかをお尋ねした。
法王は次のように答えられた。
「この世界は多くの問題に直面していますが、その問題の多くは私たち人間が作り出したものです。問題を起こす人々は、幼少期には必ずしも厄介な子どもであったわけではありません。実際に、科学者たちは実験結果に基づいて、人間には生来思いやりの心が備わっていると述べています。しかし、そうであるならば、人間はなぜそれほど多くの問題を自ら作り出してしまうのでしょうか」
「その理由のひとつは、私たちがホリスティックな視点を欠いていることにあります。私たちは物事を狭い視点からしか見ていません。もし、より広い視野に立って物事を見ていれば、直面している問題もそれほど重大なものに感じられることはないでしょうし、それほど苛立つことも腹を立てることもないでしょう。また、行いにはそれ相応の結果が伴うということも理解すべきです。偏狭な考えかたをする人々は、自分たちの行いが招く結果について思慮が及ばないようです。さらに、私たちは皆、持ちつ持たれつの関係であることに感謝することも必要です」
「仏教は破壊的な感情(煩悩)が無知によるものだということを教えてくれます。そのような感情には理性が伴っていません。一方、建設的な感情は理性に基づいています。さらに言えば、現実をあるがままに理解する智慧は、ネガティブな感情とは相容れないものです。私は仏教徒ですが、仏教が最もすぐれた宗教であると述べたことは一度もありません。しかし仏教では、釈尊ご自身が言われているように、たとえ釈尊が説かれた教えであってもそれを鵜呑みにしてはならず、まず知性に基づいてそれが正しいかどうかを懐疑的な態度で分析し、調べてみなければなりません。ですから仏教は、信心に重きを置く宗教と違って、非常に科学的な宗教なのです」
「シャーンティデーヴァ(寂天)は『入菩薩行論』の中で、“この世のいかなる苦しみも、自分の幸せのみを求める〔自己中心的な態度〕から生じる” と書かれています。人間は社会的な生き物であり、他者に依存して生きています。例えば、気候変動の影響を鑑みてみるならば、幸せに生きるためには、私たち皆が一丸となって取り組むことがいかに差し迫った課題であるかが分かります。今、人類は様々な脅威にさらされています。どれだけの時間が残されているのかを考えてみるならば、私たちは他者と協調して生きるべきではないでしょうか」
「自分と他者との違いに気づいたとき、自分が正しいと主張するのではなく、敬意を持って相手に接するべきです。私がいつも話していることですが、21世紀は対話の時代にすべきだと思います。私たちは共に生きていかなければなりません。私たちは皆同じひとりの人間なのですから、違いに目を向けるのではなく、お互いに対話をすることによって歩み寄るべきなのです」
「ここで私たちがやろうとしていることは、人々を教育することです。つまり、私たちがひとりの幸せな人間になり、幸せな家庭を築き、幸せな社会生活を送るためには、お互いにもっとあたたかい心を持つべきだということを人々に示すことなのです。私たちにはやさしさと思いやりが必要です。動物の世界でさえ、生き延びるためには互いに助け合うことが必要です。穏やかな犬はより多くの仲間を持ち、よく吠える攻撃的な犬はいつも孤独です」
「自分は特別だという考えは自分を孤立させてしまいます。私は、自分がダライ・ラマであると考えることはありません。私はたとえ夢の中でも、自分は他の人と同じ一人の人間だと思っています。そして他の人たちに会ったときは、自分の兄弟姉妹だと思って挨拶しています。そうすることが私に親近感と喜びをもたらしてくれるからです。自分は偉いのだというような自己本位な考え方は、他者との間に溝を作り、トラブルを招くだけであるというシャーンティデーヴァの指摘は、正しいと思います」
「普遍的な利他の心を大切にしてそれを実践するならば、敵を作り出す余地などいったいどこにあるでしょうか。私たちの真の敵であり、人類の敵とも言えるのは、怒りや憎しみといった破壊的な感情(煩悩)です。私たちが慈悲の心を向けるべき対象は、強い力を持つ破壊的な感情に支配された人々なのです」
最初のプレゼンターであるロバート・ローザー博士は、発達・教育心理学者としての自身の研究を振り返り、思いやりなどの資質は生来のものなのか、それとも後天的に身につけていくべきものなのか、また、生きていく途上で変容するものなのかを問いかけた。また、経験をも変容し得る生物学的な要因とは何であるのかを問い、正義の倫理、ケアの倫理、抑制の倫理など、様々なカテゴリーに分類される倫理について述べた。
ローザー博士は、新生児は近くにいる赤ん坊が泣くと影響を受けるが、泣き始めるまでには時間がかかるという証拠を引用して、人間には幼児期から倫理的感受性が備わっているとし、次のように述べた。
「残念ながら、生きる上での一貫した道徳規範を身につけられない人もいますが、だからこそ、世俗の倫理観の普及がとても重要です。人間は慈悲の心の種を持って生まれてきますが、慈悲の心の感覚をすべての人たちにまで広げる訓練をする必要があるのです。他者を “自分と同じ”と見ることができれば、“私たち” と “彼ら” という言葉で敵味方の区別をしてしまう狭い見方を変容させることができるのです」
「変容を促すための強力な教材としては、思いやりに満ちた関係を育むこと、前向きな役割規範を持つこと、人と協調すること、自分と異なる人々と関わり合うこと、人類の共通点を理解することなどが挙げられます」
思いやりやその他のよき資質について楽しそうに話す子どもたちの短い動画をご覧になって、法王は次のように述べられた。
「子どもたちは皆、友人を作りたいと望んでいますね。友人を作るために一番重要なことは愛情を示すことです。怒りは他者を遠ざけてしまいます」
「私たちには、今世紀中に非武装化された世界を実現するという取り組むべき共通責任があります。そして国境の重要性を強調する感覚を減らしていく必要があります。たとえば、私たちチベット人は中国との繋がりを必要としており、中国からの独立を求めているのではありません。しかし、その関係は中国人とチベット人が相互に敬意を持って生きていけるか否かに掛かっています。ほとんどのチベット人は中国料理が好きです。そして、チベット人は中国人からおいしい中国料理を提供してもらう代わりに、中国人に対して心を変容させる精神的な食物を提供することができると思うのです(笑)」
チベット仏教の僧侶であるマチウ・リカード博士は、自身がヒマラヤ地域で長年撮りためた美しい写真を交えてプレゼンテーションを行った。そして、世俗の倫理における慈悲の心の役割について論じ、平等であることの重要性を語り、不平等な扱いが怒りにつながると述べた。そして博士は、倫理とは、私たちの行動が及ぼす短期的および長期的な影響について考えることであり、慈悲の心とは、他者の幸福を第一に望むことであると語った。また、慈悲の心には、苦しみを避けて幸福になりたいという強い願いも含まれるが、苦しみの原因を理解する智慧も含まれるべきであると述べた。
お茶の休憩の後、ソナ・ディミジアン博士は携帯電話アプリとしてデザインされた慈悲の心の簡単なトレーニングの効果を説明した。まず、トレーニングの参加者は毎日数分トレーニング・アプリを使用し、慈悲の心がもたらす利点と、慈悲の心が欠けているときに生じる過失が提示される。そしてトレーニングの参加者と管理グループは苦しんでいる人の話を聴くように促され、話を聴いた彼らの反応は、苦しむ人々を支援する慈善プロジェクトに金銭的な支援を行うという観点でモニターされる。その結果、慈悲の心のトレーニングを実践した参加者は支援したいと迷いなく望む一方、管理グループのメンバーは関心を維持できないようであったと述べた。
ディミジアン博士は、「愛と慈悲の心は、もはや贅沢というよりもなくてはならないものであり、それがなければ人類は生き延びていくことはできない」という法王のお言葉を引用し、「幸福の実現には公衆衛生上の観点からみても差し迫った必要性があるが、自己中心的な考え方をなくしていくことにも同様の必要性がある」と断言した。
朝から続く荒れた天候の中を、法王は本堂からお迎えの車へと歩かれ、法王のお姿をひと目見ようと階段下に集まった支援者たちに立ち止まって挨拶された後、法王公邸へと戻られた。
法王は明朝、最終日の会議に再び出席される予定である。