インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝、ダライ・ラマ法王が心と生命会議の会場に着席されると、本日のモデレーターであるリチャード・デビッドソン博士が法王の昨夜の睡眠時間についてお尋ねした。法王は「9時間寝ました」とお答えになり、過去に同様の質問をしたアルナーチャル・プラデーシュ州の政治家とのやりとりについて次のように話を続けられた。法王が、「私は9時間眠り、午前3時に起床して瞑想に入ります。心を鋭敏にして、人をうまくだませるようにするためです」と冗談交じりに返答されると、その政治家は、「道理で私が人をだませないのは6時間しか寝ないからですね」と大笑いしたのだそうである。
デビッドソン博士は、「会議の初日に社会性と情動についての学習(SEL)に関する基本的科学を学び、昨日の2日目の会議では実際の運用例を見分しました。今日と明日は、これらの計画における重要な要素を探究したいと考えています」と述べ、メタ認知、つまり仏教の言葉でいう「正知」(心が対象からそれていないかどうかを見守る監視作用)と「作意」(心を対象に従事させること)についてのプレゼンテーションをするアミシ・ジャー博士とソナ・ディミジャン博士を紹介したのち、ゲシェ・トゥプテン・ジンパ博士がセッションをまとめ、仏教の観点からこれらの項目を評価するとした。
アミシ・ジャー博士は、メタ認知(正知)と気づきの訓練(作意)に関する研究者で、読書をしようという意図を持っている人の心を代表例として取りあげた。読書を開始し、ある時点に来ると自分の心が散漫になっており、実際には「作意」(心を従事させること)が失われていて、対象に注意を払っていないことに気づく。この気づきがメタ認知(正知)であり、現時点における心を明白に認知する「正知」の例である。注意をはらうことによって意図的に選び出した対象に、心を優先的に従事させることを可能にするものである。あたかも暗い部屋の中で電灯をともし、対象を照らし出すようなものである。これからそれへと移動しながら、心の内面も外部世界も焦点として照らし出すことができる。
続いてジャー博士は、気づきの訓練(作意)とメタ認知(正知)の測定実験について発表した。その実験では、被験者は顔と家を重ね合わせた画像を多数見て、顔か家かに注意を向けるよう指示され、それに関する質問に答える。もう一つの実験は、単調な顔面写真の羅列の中に時折上下さかさまの顔が現れ、気づいたときにボタンを押す、というものである。ボタンを押せるかどうかで、被験者の注意力が保持されているか否かを判断する。
法王は、純粋な意識作用と五感を通して生じる感覚的な意識の間には明確な違いがあると言及された。動物は聴覚、嗅覚などに対して人間よりはるかに鋭い感覚を持っているが、人間は考えるという純粋な意識作用において動物よりもはるかに優れている。
法王は続けて次のように述べられた。
「意識について語る時は、概念作用と感受作用を区別しなければなりません。あなたが集中して考えている時は感覚的な体験に注意がはらわれていることはありません。このことをもっと人々に教えるべきです。意識には様々な違ったレベルがあることをより深く理解する必要があります。感受作用と概念作用の意識の違いを識別しなければ、混乱を招きます。私が時折、心のはたらきに関する古代インドの智慧に比べれば、現代の心理学は小学生レベルだとお話しているのは、このような理由によっているのです」
ジャー博士は、注意力を伸ばすのは心の訓練の重要な要素であるが、その一方で、通常の私たちのレベルでは自分の心がいつさまよい出したのかを見極める力は非常に弱い、と述べた。
続いて、ソナ・ディミジャン博士が臨床分野における心の訓練についての知見を発表した。ディミジャン博士は特に、妊娠中や出産直後の女性に見られる気分の落ち込みを防止し、発散するための研究をしている。母親の身体的な健康に注意を払うべきであることは一般的に受け入れられているが、妊産婦の精神的な健康にも同様に注意が払われるべきである。彼女はマインドフルネスを基盤にした認知療法(MBCT:Mindfulness Based Cognitive Therapy)が一般的なケアより効果的であるとしている。
法王は、気分の落ち込んでいる人はたとえ素晴らしい景色に接しても、感動を覚えない。それと対照的に、慈悲の修行と空性の理解を修行した結果として心が落ち着いている人なら、簡単に気分が落ち込むことはないと語られた。
ディミジャン博士は、落ち込んでいた人たちは、二度と悲惨な状態に戻りたくないと望んで、マインドフルネスの訓練に熱心に取り組むものだと指摘した。そのような訓練には身体活動への着目、次に精神活動への着目、そして難解な思考に対する着目が含まれる。
法王は再度、身体的健康と精神的健康を比較された。身体が基本的に健全であればウイルスにも感染しにくい。同様に精神が健全であれば、否定的な考えや経験もやる気を阻害することはない。科学者は大勢の人々に信頼されているのだから、一般大衆に対して精神的健康と身体的健康の両方が必要であることを理解できるよう助ける責任がある、と法王は述べられた。
お茶の休憩後、ゲシェ・トゥプテン・ジンパ博士は法王の通訳としての立場を離れて、「作意」(心を対象に従事させること)と「正知」(メタ認知)に関する仏教的な見解を述べるため、シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』第5章「正知」の中の偈頌を典拠として引用した。ジンパ博士によれば、シャーンティデーヴァは僧院内で僧侶たちが利他を基本とした生活が送れるよう、規範となる枠組みを提供したいと考えていたことを述べ、もう一つの出典として『念処経(サティパッターナ・スッタ)』に言及しようとしたところで、法王が次のように割って入られた。
「釈尊ご自身はインドの伝統的な心の訓練によって仏陀となられました。六年間の苦行中は、断食だけでなく深い瞑想も修行されました。釈尊はその時点において、すでに千年以上の伝統があった古典的修行法を完遂されたのです。今、私は自分のことを、ある意味で仏陀より偉大な古代インド思想のメッセンジャーであると考えています」
ジンパ博士は、仏教の見解ではマインドフルネス(憶念)は意図的に選択した対象に向けられた注意の保持を可能にする要素であるが、メタ認知(正知)では進行中の過程を身体的、精神的に観察することも含んでいるとして、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』より以下の偈を引用した。
私たちが目指す明らかな目的は、マインドフルネス(憶念)とメタ認知(正知)を用いて心を監視し、倫理的戒律を守ることである。
シャーンティデーヴァはメタ認知(正知)を次のように定義している。
マインドフルネス(憶念)によって注意深さを維持し、メタ認知(正知)によって心を監視し、守るべきである。
心の門が堅固に守られている時、人は行動を規制できる。それを可能にするには二つの要素、つまり、「正知」による監視作用と、自身による監視作用が必要である。ひとつはマインドフルネス(憶念)という条件に支えられており、もう一つはその結果である。ジンパ博士は、マインドフルネス(憶念)とメタ認知(正知)を育むことによって、瞑想の伝統と科学の間に必ず実り多き協調があるだろう、と述べた。
それに続く自由討論の中で、法王は、マインドフルネス(憶念)は一点集中の瞑想修行のみならず、分析的な瞑想にも必要であると述べられた。ジャー博士が、「まず前提として、なぜ心は散漫になってしまうのですか?」と質問すると、法王はしばらく黙考されて、このように答えられた。
「ひとつの回答は、それはそういうものだから」
それを聞いて、会場には肯定的な笑いが沸き上がった。法王は考えられたのち、「それは例えて言えば、知性とさまよう好奇心の結果とも言えるでしょう」と付け加えられた。
3日目の討議は終了し、法王は公邸に戻られた。法王は明日も午前のセッションに出席される予定である。