インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
ダライ・ラマ法王は、いつものように時々立ち止まって人々と会話をされながら、法王公邸からツクラカンに歩いて向かわれた。本堂の中に入られると、まず仏陀釈迦牟尼像に礼拝されてから、会議の参加者たちの方に向き直り挨拶をされた。そして「よく眠れましたか?」と聞かれ、「私は9時間寝ました」と言われた。そして、アメリカから来たメイヨー・クリニックの法王の主治医と個人的な挨拶を交わされた。
この日の司会役であるアントニー・フィリップス博士が法王のご参加に感謝の辞を述べ、午前中は3人の発表者が、法王の助言による心の教育がいかに現代の教育を変容させているかについて報告をすると説明した。
最初の発表者はキンバリー・ショナー - ライクル博士で、博士は当初教師であったが後に科学者に転じ、今や「社会性と情動の学習(SEL:Social Emotional Learning)」と「学問と社会性及び情動の学習(CASEL:Collaborative for Academic, Social, and Emotional Learning)」の分野で30年の経験を重ねている。これらのプログラムによって育った子どもたちは、より思いやりの深い行動と学問的に良い成績を修めるだけでなく、攻撃性や感情的苦悩がより少ないことが明らかになっている。さらには、「社会性と情動の学習」プログラムは世界中で盛んになりつつあり、2017年までに米国の半分の州で教育システムの一部に受け入れられ、150万人の教師と2,500万人の生徒たちがその教育に関わっている。その結果として、生徒たちは読み書きや数学を学ぶだけでなく、それぞれの感情への対処法も共に学ぶことができている。
ショナー-ライクル博士は「社会性と情動の学習」プログラムについて、その核となる機能を紹介し、カナダのブリティッシュコロンビア州では教育の一部に統合されていると報告した。成長観察によれば、生徒たちはより注意力を増しながら、ストレスも少なく成長している。鬱になる傾向は減り、思いやりは強くなっていて、自発的に他者と共有し、利他的で信頼できる人物に育っている。彼らは科学的な分析も受けて、プログラムによって何が起こり、なぜそうなるのかについての説明も受けている。
博士は、法王がブリティッシュコロンビア州におけるよき変容の原動力となり、良き影響を与えてくださったことに対する感謝の意を表した。
次に、ソフィー・ランリ氏とターラ・ウィルキー博士が自己認識、自己管理、社会的意識、人間関係を築く能力、責任ある決断力という人間の持つ5つの中核能力が、「自分」「相手」「私たち」の三つの領域においてどのような役割を果たすかについて解説した。まず「自分」においては、幾つかの感情がそれぞれ異なるエネルギーを持つ。例えば怒りや興奮は高いエネルギーを持ち、5歳の子どもでも15種類の感情を伴う感覚について学び、認識することができる。また人間の価値を育むのに何が必要かを学び、それによって感情をコントロールできるようにもなる。このように、小さな子どもでも感情に関する能力を身につけることができるのである。
「相手」の領域では、子どもたちは互いの違いを知るだけでなく、感情に支配されずに人間の持つよき心に基づいて争い事の解決方法を学んでいる。また「私たち」の領域では、先に述べた人間の5つの中核能力に加えて、相互依存の関係に感謝するという6番目の要素も学ぶことができる。ここで子どもたちは、思いやりや親切な行動が自分にとっても他者にとっても重要であることを学ぶ。共同作業において、共に助け合うことを練習するのである。
続いてウィルキー博士は、ある幼い女の子が急いで課題をこなそうとして短気を起こし、ひどい言葉を使った時の話を喩えとしてあげた。その子は校長室に呼ばれたが、まだ怒りは治まらなかった。そこで感情についての図を見ながら説明を受け、自分の感情が怒りや悲しみであると理解できてから、思いやりが必要であると気づいたのだった。
「自分」の領域に取り組む幼い子たちの短い動画では、子どもたちは学ぶだけではなく、明らかに楽しんでいる様子であった。
司会者は、今まで見てきた プレゼンテーションによって「社会性と情動の学習」が生徒や教師、保護者を対象として、学校教育に十分に組み込まれるようになったことを示しており、また心の教育だけでなく、教育システムそのものを教育する必要があると述べた。
以上の発表を受けて、法王は以下のように述べられた。
「皆さんが成し遂げてこられたこれらの教育の変化と、それによって子どもたちに生じた良き変化を心 から称賛したいと思います。70億の人類は、より大きな『私たち』という感覚を育てる必要があると思います。ユネスコのような国際機関もこのような手法を取り上げることを願っていますし、欧米だけでなく、中東やアフリカなどの他の地域にも広める必要があります。こういった経験を、深刻な問題に直面している国々とも共有する必要があります」
「シャーンティデーヴァ(寂天)は、『他者の幸福に無関心ならば、仏陀の境地はおろか、今生においても喜びはあり得ない』と簡潔に述べています。日々の生活において、温かく優しい心は幸福への鍵となる重要な要素なのです」
続いてキンバリー・ショナー - ライクル博士は、経済協力開発機構(OECD)が教育プログラム「エデュケーション2030」を提唱しており、このプログラムは現代の学生たちが彼らの世界を築き、繁栄するために必要な知識や技術、姿勢や価値観を見出すことができるように様々な国へのサポートをすることを目的としている、と発言した。またユネスコに関わっているリチャード・デビッドソン博士も、デリーから諸国に出かけて活動している同僚を紹介した。
ここで法王は、イスラエルとパレスチナの問題について触れられ、これが中東全体に影響を及ぼしていること、また現地を訪れたときに双方の認識があまりにも隔たっていると感じたが、和解を模索する小さな活動もあり、それが種となって育つ可能性があると述べられた。
そして、「恐らく、心と生命研究所もイスラエルとパレスチナの地域においてできることがあるでしょうし、それができれば中東全体にとっても利益をもたらすでしょう」と述べられた。
それを受けてターラ・ウィルキー博士は、中東地域においても「社会性と情動の学習」が使われ、良い結果を出していることを報告した。教育者であり、国際的に認められている学習コンサルタントであるアーロン・スターン氏は、法王のお話に感銘を表して、物質主義がはびこる中米の地域では教育において何ができるかを問いかけた。法王は次のように答えられた。
「しばしば現代の教育は、物質主義に偏り過ぎており、感覚的な喜びを追い過ぎる傾向が見られますが、慈悲を育むためには純粋な精神的意識作用と取り組む必要があります。そこで、心の働きをより深く理解することが必要となるのです」
ここで休憩時間となり、お茶が振る舞われた。再び参加者たちが席に戻ると、過去18年にわたって欧米とアジアにおける教育者としての経験を持つエモリー大学のジェニファー・ノックス氏が、年長の子どもたちに対する倫理的側面を加えた「社会性と情動・倫理の学習(SEEL:Social Emotional and Ethical Learning)」における自身の活動について説明した。ノックス氏は、教師として、芸術家として、また母として、認知・慈悲・関り合いの三つの領域と、個人・社会・全体という三次元の構造において基礎的な能力を育てることについて語った。通常の能力だけでなく、全体という次元においては相互依存性を正しく理解することも加える必要があると述べ、生徒たちが感情をどう扱うかについて語る短い動画を見せた。誰にでも選択肢があることと、慈悲の文化において必要となる手法の必要性も強調した。
法王はこの点に関して、慈悲について語るときには自分自身に対する慈悲も含めなければならない、と述べられた。自己を犠牲にすべきかどうかの問題ではなく、愚かな利己主義と賢い利己主義を見わける必要がある。人は社会的な生き物であり、互いに他者に依存しているので、他者に対する愛と慈悲の心を持つことが自らの幸せを得るための賢い利己主義なのだと述べられた。
そして法王は、プレゼンテーションの中に出て来た北アイルランドのリチャード・ムーア氏の話をされ、ムーア氏は法王の古い友人であり、英雄なのだと言われた。ムーア氏は10歳の時にゴム弾で撃たれて盲目となり、意識が戻って目が見えなくなったと分かった時も怒ることはなかったが、母親の顔がもう見られないことだけを悲しんだと言う。のちにムーア氏はそのゴム弾を撃った兵士に会い、互いに友人となって、今や紛争地域の子どもたちのために活動しており、他者に対する慈悲の心によって、自らの困難を克服した英雄なのだと述べられた。
午前のセッションが終わりに近づき、ゲシェ・トゥプテン・ジンパ博士が法王に、これまで見てきたことに何か加えるべきものがあるかとアドバイスをお願いしたところ、法王は特にこれ以上話すことはないが、これまで聞いてきたプレゼンテーションに対して深く感謝するとともに、さらに発展して広がっていく可能性に希望と期待を抱いていると述べられた。
2日目のセッションが終了し、法王はゆっくりとツクラカンの階段を降りて迎えの車で公邸へと戻られた。明日の午前も法王は会議に参加される予定である。