ラトビア共和国、リガ
木々のこずえやリガの教会群の尖塔を照らす黄金色に輝く早朝の光とは裏腹に、今朝の空気は冷えきっていた。ダライ・ラマ法王は、バルト諸国から参加した約75人のチベット支援者たちと会見された。最初にラトビアの仏教徒たちより、法王のご来訪を歓迎して、千手観音菩薩のタンカ(仏画)が贈られた。法王はこれを受け取って次のように述べられた。
「観音菩薩はチベット人にとって特別なご縁のある菩薩です。私にとっては“ボス”なので、私は時々観音菩薩にアドバイスを求めます」
エストニア人グループは、法王にエストニアご訪問と法話会を請願し、リトアニア人グループの代表は小さな贈り物を献上した。
「バルト諸国の友人の皆様にお会いできて、たいへん光栄です。私たちチベットと同様に、バルト諸国は長い間弾圧に苦しんできました」
「チベットは“世界の屋根”と言われ、チベット高原の環境や気候は周辺諸国に影響を与えます。世界の大河のいくつかはチベットに源流があるのです。流域には10億人以上の人々が暮らしていますが、森林破壊と地下資源の乱開発による被害が引き起こされています。標高の高い地域や乾燥した大気は、他の地域に比べて回復に長い時間がかかります」
「チベット語も弾圧されています。学校教育においてチベット語が禁止されており、チベット語が禁止されていない学校であっても、チベット語を話す生徒たちは中国語を話す生徒たちよりも低く評価されています」
「中国当局は最近、漢人の流入によって小規模な町を都市に格上げすることを決定しました。彼らは十分な教育を受けておらず、労働者としても未熟な傾向がありますが、数でまさるため、チベット人の職を奪っています。今や、都市部での第一言語は中国語になっています。ラサでは、チベット人たちも、これまでずっと主食としてきたツァンパ(はったい粉)の代わりに米を食べるようにさえなっています」
法王は次のように続けられた。「さまざまな国々の仏教徒と会うことで、チベット人が何世紀にもわたって厳密に学び、守り続けてきた仏教の知識がいかに重要であるかがよくわかりました。もし、この知識が失われてしまったら、大きな損失となります。チベット人は独立を求めてはいませんが、チベットの言語、文化および知識を守る機会を維持していかねばなりません。そこで、1974年以来、相互に賛同できる解決策を探し続けてきたのです」
法王は質疑応答の中で、バルト諸国の友人たちに次のように助言された。環境保護の専門家を含むグループでチベットを訪問し、どのような損害がすでに起きているのか、それを是正するにはどのような対応措置が必要であるか、さらなる悪化を防ぐためには何をすべきかを調査してほしい、と。そして、法王は、宗派主義に陥ることなくチベットの宗教的伝統を守るために、チベット仏教のあらゆる宗派はナーランダー僧院の伝統に源を持っていることを再認識するべきだと指摘された。
法王はスコントン・ホールに戻って法座に着座され、ラトビア語とロシア語に翻訳され出版された法王の著書『ダライ・ラマ 宗教を語る』を聴衆に紹介された。続いて、『般若心経』がロシア語で唱えられた。
法王は、第二の仏陀と言われるナーガールジュナ(龍樹)のおことばを引用して、法話を始められた。ナーガールジュナの著書『根本中論頌』は釈尊への帰敬偈から始まる。釈尊は縁起の理を説かれ、縁起の特長は8つの極端を離れた八不(はっぷ)(八つの否定)、すなわち、「不滅不生、不断不常、不来不出、不異不一」(滅することがなく、生じることがなく、断なることなく、常なることなくであり、来ることがなく、行くことがなく、別異でなく、同一でない)であり、区別がなく( 無差別 )、実体がなく(無自性)、概念的妄想(戯論)を離れている。ナーガールジュナは、いかなるものもことばの上では(言説においては)存在するけれども、実体的には自性として存在していない、と説かれた。これは、全く存在しないということではない。しかし、知性を用いて鋭い批判的分析を行うと、他の因や条件に依存せず、独立して存在する固有の実体は何も見つけられない。そこで、ナーガールジュナは『根本中論頌』第24章で次のように説かれている。
故に、縁起しない現象は
何ひとつ存在していない
故に、空でない現象は
何ひとつ存在していない
法王は次のように言われた。なぜ私たちは、いかなる現象も固有の実体としては全く存在していないということを理解しなければならないのかと言えば、私たちはすべての現象が、独立した固有の実体として存在していると誤解しており、この誤解こそが私たちの苦しみの源だからである。釈尊はご自身の経験から縁起について説かれたのである。
ディグナーガが述べられているように、釈尊は修行の道を実践されたことにより悟りの境地に至られて、信心と帰依の拠りどころとなられたのである。釈尊は第三転法輪において、生きとし生けるものは皆、光り輝く汚れのない心を本質的に持っており、それが仏性と呼ばれる仏の種(一切衆生悉有仏性)であると説かれた。タントラ(密教)では、心には粗いレベルから微細なレベルまでさまざまな意識の段階があると説かれている。心の本質が空であるからこそ、私たちは四種の仏身(四身)を成就できる可能性を持っているのである。
法王は、からだは五大(5つの要素)、すなわち地・水・火・風・空(固体性、流動性、熱、運動性、および空間)から成り立っているが、それらの中に自我を探しても、どこにも見つけることはできない、と言われた。私たちはからだの中を探してもどこにも自我を見つけられないので、自我とは意識の一部であるにちがいないと考える。そこで法王は、次のように説明された。
「ダライ・ラマとは私のからだではありません。ダライ・ラマとは私の心ではありません。しかし、ダライ・ラマはそれらと無関係に、別個に独立して存在しているわけでもありません。このように分析していくと、ダライ・ラマの実体と言えるものは何も見つけることはできません。私は、ダライ・ラマと名づけられたことによって存在するだけであるという結論に至ります」
私たち人間は社会生活を営んで生きていく類の生きものなので、友人を必要とする。愛情深い家族はたとえ貧しくても幸福であるという事実は、自分よりも他者を大切にすることが幸福の源であることを証明している、と法王は指摘され、シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』第8章より次のおことばを引用された。
この世のいかなる幸せも
他者の幸せを願い、〔利他をなす〕ことから生じる
この世のいかなる苦しみも
〔自分だけを大切にして〕自分の幸せを求めることから生じる
法王は、菩提心を起こしたいと心から願う「熱望の菩提心」(発願心)を生起する儀式に聴衆を導かれ、続いて、希望者に在家信者戒を授けられた。そして最後に、釈迦牟尼仏、観音菩薩、文殊菩薩、聖ターラー菩薩の真言伝授を行われた。
昼食休憩後、法王は参加者との質疑応答に応じられた。子育てに関する質問に対しては、子どもが言うことを聞かない時、子どもの腕白な行動が危険である時、あるいは厳しく躾けるべき時など、さまざまな場合がある。しかしながら、概して子どもたちに愛情と優しさを示すのが良いと感じている。そして、子どもたちを怖がらせ、恐怖心を起こさせることは、全くためにならない、と明確に述べられた。
仏教を実践する精神生活と家庭生活をどのように両立し、調和させるべきかについて助言を求めた質問者に対して、法王は次のように答えられた。釈尊はすべての弟子に対して、出家して比丘や比丘尼になることを勧められたわけではない。実践修行の主な目的は心を変容することなのだから、家庭生活を送ることには意義があるはずである。また、別の男性が、仏教徒が戒を放棄し、武器を取らざるを得ない時とはどのような状況かを尋ねると、法王は次のように答えられた。現実に、深い相互依存の関係を持つ現代において、私たちが互いに殺し合うことにどのような利点があるだろうか。20世紀には何億もの人間が暴力行為によって尊い命を落としたが、そのようなことにいったいどのような意味があったか、どのような利点があったか、よく考えてみるべきではないだろうか、と。
数人の質問者は、最も微細なレベルの意識である光明の心と、意識のさまざまなレベルについて詳しく聞きたいと質問した。別の質問者は、『宝行王正論』第5章85偈について質問した。
たとえわずかでも
解脱していない有情がいる限り
無上の悟りを得たとしても
彼らのために〔輪廻に〕とどまることができますように
法王は、この質問者の女性に次のように述べられた。これは、心の訓練(ロジョン)の教えについて説かれている偈であり、ひとつの生涯やひとつの劫だけでなく、無数の生涯と無数の劫にわたって他者を助けたいと強く願うことである、と。
法王は再び、ディクナーガの論理学解説書『集量論』の註釈書である、ダルマキールティ(法称)の『量評釈』に戻られた。釈尊は信頼できる指導者であることが明瞭に説明されている偈をいくつか選ばれて、釈尊のすべての教えにおける四聖諦の役割と、無知はゆがんだものの見かたであり現実の誤認であること、そして、すべての苦しみの源である無知は根絶できることに言及された。
『量評釈』の中に次のような議論がある。執着と怒りという二つの煩悩は、対象物を見る時に真向から対立するものの見かたであるが、執着が怒りを鎮める対治(対策)となったり、怒りが執着を鎮める対治となることはない。これと同様に、愛情は無知を滅するための対治にはならない。すべての現象の究極のありようである空性を理解することのみが、無知を晴らす対治となるのである。
この章の最後に、法王は次のように繰り返された。「20世紀のインド学研究者であったロシア人がダルマキールティの学術研究をしたことをきっかけに、ダルマキールティの仏教論理学への貢献が注目されたことを知って、私は大変感銘を受けました。この学者は、ただ自らの研究を紹介しただけだと言っていますが、この研究には非常に強い熱意と意欲が不可欠であることがわかります。また、すぐれたモンゴル人学僧で、デプン僧院ゴマン学堂の僧院長だったロサン・チューダク師は、この『量評釈』に精通していましたが、今ではこのテキストの最初から最後までを説明できる者は誰もいないと言っていました」
そして法王は、次のように締めくくられた。
「皆さんにこのテキストを紹介し、菩提心生起の儀式を行い、説明することのできる機会を持てて、たいへんうれしく思います。皆さんが今後さらに関心を高めてくださることを望んでいます。私は、ナーランダー僧院の偉大な導師たちの著作は本当に目を見張るほどすばらしいものだと尊敬しています」
「阿羅漢であるサガラ尊者は、『我々は、学問、読経、三学(戒律、禅定、智慧の実践修行)を通じて、この人生を意味のあるものにすべきである』と述べています。私は81歳ですが、できるかぎり仏典を読んで勉強をしています。チベットの偉大な学僧サキャ・パンディタも、『たとえ明日死ぬことになろうとも、今日学ぶことに価値がある』と述べています。結論を言うと、あなたがたが直面している問題に正しく対処し、ネガティブな感情(煩悩)を克服する努力をするならば、教えの目的が果たされたことになるのです」
法話会の終わりに、主催者が収支決算について報告した。そして、ロシア人歌手ボリス・グレベンシュチコフ氏が付き添いに伴われて登場し、法王に歌と演奏をささげて、法話会は終了した。法王は、聴衆の敬愛がこもった声援にこたえて、「またお会いしましょう」と言って手を振られた。法王は明日スイスのベルンに移動される。