曇り空の下、パリの街には僅かに朝の光が差し、建物の金線細工を照らしている。ダライ・ラマ法王を乗せた車は元老院議事堂へ向かい、そこで法王は30人のフランス元老院議員及び国民議会議員との意見交換会に参加された。会場の外では議員全員が法王のご到着を待ちうけており、ミシェル・レゾン議員が代表して法王を会場内へ案内した。法王は次のように挨拶の辞を述べられた。
「兄弟姉妹の皆さん、今日こうして皆さんにお会いできたことを大変嬉しく思います。また、チベットの現状に関心を寄せていただいていることに感謝いたします。問題解決に向けて、私たちチベット人は最初から非暴力によるアプローチを貫いてきました。近年チベットで起こった焼身抗議は、最後まで他者を傷つけないというチベット人たちの強い決意の表れでもあります」
「チベットはかつて独立した一つの国家でしたが、今では中国の一部として生きていくことに何の異議もありません。これは支援者の皆さんもすでにご存知かと思います。近年中国では、私たちの中道のアプローチを支持し、中国政府の方針を批判する記事が多く発表されており、その数は千にのぼると言われています。私は最近、事情に精通した中国の学者に会いましたが、その方の話では、新疆ウイグル自治区も同じアプローチで問題解決に取り組むとのことでした」
法王はかつて2度の世界大戦を起こしたヨーロッパの国々が、今では欧州連合として機能していることに感銘を受けていると述べられた。これは過去にどんなことがあっても、新しくやり直すことができるという証である。法王は、かつて物理学を教えてくれたカール・フォン・ワイツゼッカー氏の言葉を引用し、フランス人にとってドイツ人は誰もが敵であり、ドイツ人にとってはフランス人の誰もが敵であるという時代があったことに触れ、これはすべて過去のことであり、世界は変わったと述べられた。そしてヨーロッパで実現されたことが、やがてはロシア、アフリカ、アジアにも広まるよう願っていると述べられた。私たちはひとつの人類家族として生きていく必要があり、その方法をヨーロッパがお手本となって示してくれていると述べられた。
「皆さんがチベットへの問題意識を公言できる立場にあるのは、大変すばらしいことです。もし中国の方々とお話しする機会があれば、ぜひ皆さんがチベットを支援されていることを伝えてください。中華人民共和国という国家は、建国以来政党も体制も変わっていませんが、それでも国内における変化は起きています。共産主義強硬派は人民の共存と団結を謳いながらも、未だそのどちらも達成できず、ジレンマに陥っています。私は時々、彼らは常識として持ち合わせている脳の一部が欠けているのでは、と思う時があります」
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元老院議事堂での意見交換会で、ダライ・ラマ法王に質問をする議員。2016年9月14日、フランス、パリ(撮影:オリビエ・アダム)
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「今後中国の学生や旅行者たちが外の自由な世界を知ることで、私たち人間は皆平等であり、言論の自由があることに気づくでしょう。中国が世界に対して国を開くかどうかは、彼らが決めることです。もしそれが実現されるなら、世界にとって多大な貢献となるでしょう」
続いて行なわれた質疑応答では、最初にチベットの自然環境に関する質問が挙がった。そこで法王は、ある中国人環境学者の話をされた。その学者によると、チベット高原の気候の変動は北極や南極のそれと同等の影響を地球に及ぼすことから、チベットは「第三の極」と位置づけられている。また、森林伐採に反対する地元チベット人の運動が当局に抑圧されていることに触れ、法王は常々、議員の方々には実際にチベットへ行き、そこで何が起こっているかを自分の目で確かめるように勧めていると述べられた。
次のダライ・ラマの転生の可能性についての質問には、すでに1969年に公言されている通り、ダライ・ラマ制度を存続させるか否かはチベット人が決めることである、と答えられた。また中国当局が、ダライ・ラマ法王ご本人ではなく、その転生にばかり神経を尖らせていることに対して、当局はまず毛沢東や鄧小平の転生者を探した方がいいと、冗談めかして述べられた。
意見交換会を終えられた法王は、続いて宗教間の対話が開催されるベルナルダン大学へ車で移動され、そこでカトリック教会パリ大司教アンドレ・ヴァントロワ枢機卿の歓迎を受けられた。古く美しい建物の中では、キリスト教、イスラム教、仏教等の異なる宗教指導者たちとの対話が行なわれた。対話の参加者は、フランスのユダヤ教ラビ代表ハイム・コルシア師、仏プロテスタント連盟(the Federation Protestant in France)代表のフランソワ・クレベロリ氏、仏イスラム教評議会(the French Council of the Muslim Faith)代表のアノアラ・クビベッシュ氏、フランスの正教会(the Orthodox Church in France)代表のメトロポリタン・エマニュエル氏、フランス仏教会(the Union of Buddhists in France)代表で禅僧のオリビエ・ワン - ゲン氏である。
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異宗教間会議が開催されたベルナルダン大学でダライ・ラマ法王を案内するカトリック教会パリ大司教アンドレ・ヴァントロワ枢機卿。2016年9月14日、フランス、パリ(撮影:オリビエ・アダム)
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法王は英語でスピーチをされ、今日私たちが抱える問題の多くは私たち自身が作り上げたものに過ぎない、と述べられた。その原因は、私たちがネガティブな感情(煩悩)に支配されているからであり、それを克服するための手段を見出さなければならない。人間の本質は慈悲の心であるということが科学者たちによって実証されており、それをどのように高めていくべきかを考える必要がある、と法王は説かれた。
「今、この瞬間、私たちがこうして安全で平和に過ごしている間も、イラク、シリア、イエメン、アフガニスタン、パキスタン、バングラデシュでは、信心の違いを原因として多くの人たちが殺されています。この事実に目を背けてはなりません。それはモラルに反することであり、これは私たち人類の仲間に関わることだからです。人を殺すという行為自体悪いことですが、宗教の名の下に人を殺すなど、実にひどいことです」
「異なる宗教間の調和を図るために、私は1970年後半から3つの実践に取り組んできました。第一の実践は、異なる宗教の学者たちと会い、お互いの共通点と異なる点について話し合うことです。第二は、精神修行を実践している方々に会うことです。例えば、スペインの山腹にあるモンセラート修道院では、5年間お茶とパンだけの質素な食事で、山中で修行をされているカトリックの神父の方に会いました。私がどんな修行をしているのか尋ねると、その方は愛について瞑想していると答え、その目は真の幸せで輝いていました。同じようなすばらしい出会いが、イスラム教の修行者ともありました」
「第三の実践は、様々な宗教の聖地を巡礼することです。この取り組みはインドのサールナート、ベナレスで始め、イスラム教のモスク、キリスト教の教会、ヒンズー教寺院、そしてシーク教寺院を訪れ、それぞれの場所で祈りを捧げました」
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ベルナルダン大学で行なわれた異宗教間会議で、タオルで照明の熱を避けながらお話をされるダライ・ラマ法王。2016年9月14日、フランス、パリ(撮影:オリビエ・アダム)
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法王は近年の報道に触れ、「イスラム教テロリスト」や「仏教徒テロリスト」という呼び方は間違っていると指摘された。なぜならば、暴力を行使した時点でその人は宗教の教えに背いたことになり、イスラム教徒でも仏教徒でもないからだと法王は説明された。また一部の人の誤った行為に対して、イスラム教徒や仏教徒全体を批判するのも間違っていると述べられた。
「私はインドに暮らして57年になります。インドのイスラム教徒の人口はパキスタンのそれを上回っていますが、彼らは他の宗教の信者たちと長い間調和を保って暮らしてきました。インドには、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界の主要な宗教が、本来インドの宗教であったヒンズー教、仏教、ジャイナ教、シーク教と調和を保って共存しています。世界で人口が2番目に多いインドで、こうした共存が可能なのですから、これは他のどの国でも実現できることなのではないでしょうか」
そして法王は次のように続けられた。「過去においては、自分の信心する宗教が唯一のものであり、真実はひとつだと見なして問題はありませんでした。しかしグローバル化が進んだ現在、人間社会もさらに拡大してきたことを考えると、私たちの住む世界には数多くの宗教が存在し、いくつかの真実が存在することがより現実的で重要なこととなっています」
対話が終了すると、ベルナルダン大学主催による昼食会が催され、その後法王はフランス国立東洋言語文化研究所(National Institute of Oriental Languages and Civilisations / INALCO)へ車で移動された。同施設代表のマヌエル・フランク氏とチベット学部の一員であるフランソワ・ロバン氏が法王のご到着を歓迎し、チベット人の若者が伝統に基づいた歓迎の儀を執り行なった後、法王を会場へと案内した。会場ではチベット語を学ぶ学生による吉祥偈の読誦が行なわれた。
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フランス国立東洋言語文化研究所でお話をされるダライ・ラマ法王。2016年9月14日、フランス、パリ(撮影:オリビエ・アダム)
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フランス国立東洋言語文化研究所のマヌエル・フランク氏はスピーチの中で、ソルボンヌ大学を母体とするフランス国立東洋言語文化研究所は18世紀から語学教育を始め、ヒューマニズムとその尊厳を説いてきたと述べた。またフランソワ・ロバン氏は、フランス国立東洋言語文化研究所は1842年にチベット語の教育を始めて以来、その価値と重要性を存分に理解していると話した。同氏は、チベット本土で、チベット語とそれによって培われてきた文化が無残にも迫害を受けている今、こうしてダライ・ラマ法王にご訪問いただけるのは、何より光栄であると謝辞を述べた。
続いて法王は200人の聴衆に向けて、チベット語で次のように話された。「チベット語とその書物は、現存する言語の中でも最も古い言語のひとつにあたります。サンスクリット語で書かれた仏典の多くは、今でもチベット語で読むことがでるのです。現在の状況を考えると、これは大変重要なことです。また、チベット人はシャーンタラクシタ(寂護)の教えを受けて、論理と根拠に基づく仏教哲学を学んできました。最近ではカンギュル(経典、釈尊が説かれた教え)とテンギュル(論書、経典の注釈書)を科学的、哲学的、宗教的な観点から見直そうという動きもあります。ナーランダー僧院の伝統には、古代インドの学者たちによる心と感情についての叡智がたくさん詰まっています」
「哲学者であり、論理学者でもあったシャーンタラクシタ(寂護)は、仏教哲学だけでなく、認識学もチベットの地にもたらしてくれました。その教えを授かった私たちチベット人は、その厳格な学問の伝統を今日まで絶やすことなく守ってきました。今後私たちがチベット語という言語を守ることができれば、私たちの宗教と文化も絶えることはないでしょう。しかし、残念ながら中国当局にとっては、こうしたチベットの伝統を守ろうとする努力が、中国からの分離を求める動きとして映ってしまうのです。この努力の中で大切なことは、口語としてのチベット語だけでなく、チベット語の読み書きと、ナーランダー僧院の伝統に基づく13の古典の学習も維持していくということです。私たちが仏教哲学を学ぶ時には論理と根拠を用いますが、この方法は仏教だけでなく、他の学問や取り組みにも大いに役立つものだと思います」
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フランス国立東洋言語文化研究所の学生たちと挨拶を交わされるダライ・ラマ法王。2016年9月14日、フランス、パリ(撮影:オリビエ・アダム)
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引き続き行なわれた質疑応答で、三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)をチベット語で学ぶのに最適の場所はどこだったのかという学生からの質問に対して、法王は次のように答えられた。チベットには学問に適した僧院がまだ残っているが、教える人の数は大変少なくなっている。チベットにはかつてすぐれた学僧たちが数多くいたが、1959年のチベット蜂起以来、彼らは不当に逮捕されるか殺されるかして、いなくなってしまった。現在南インドに再建された僧院では、一万人の僧侶と尼僧たちが伝統に基づいた厳格な方法で学問に取り組んでいる。その成果として、今年末にはゲシェマ(女性の仏教哲学博士)の学位を授かる尼僧が現れていることを話された。
法王は最後に、40年ほど前に自然科学の分野に興味を持った時の話をされた。ご友人に助言を求めたところ、仏教を学ぶアメリカ人から「科学は宗教を殺す」と警告されたが、仏陀ご自身が、「自らの教えを鵜呑みにするのではなく、金細工職人が金の純度を鑑定するように、その教えを自分で調べて分析するべきだ」と言われたそのお言葉に従い、法王は科学者たちとの対話を始められたのである。以来30年以上が経つ今も、仏教と科学が互いに恩恵をもたらし合っていることは明らかな事実である。
法王はフランス国立東洋言語文化研究所を後にされ、空港からストラスブール行きの飛行機に搭乗された。ストラスブールでは法話会と一般講話が予定されている。