アメリカ、インディアナ州 インディアナポリス
今朝、ダライ・ラマ法王は、世俗の倫理教育を普通教育のカリキュラムの中に取り入れるための草案を検討する会議に出席された。この会議には、エモリー・チベット・パートナーシップの会員に加えて、多数の専門家も招かれており、ダニエル・ゴールマン氏、リンダ・ランティエリ女史、マーク・グリーンバーグ氏、そしてキンバリー・ライチェル女史などの社会的・感情的学習(Social Emotional Learning, SEL : 子どもの成長に欠かせない教科以外の能力を学習するプログラム)の先駆者たちも招待されていいた。
会議の始めに、法王は次のように述べられた。
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世俗の倫理教育について意見交換をされるダライ・ラマ法王。2016年6月25日、アメリカ、インディアナ州 インディアナポリス(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
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「私たちは思いやりの心を高めるための構想を実行に移さなければなりません。思いやりのある人は、健康なからだを維持することができますし、自分もまわりの人たちもより幸せになれるということを知れば、思いやりを持とうという称賛の気持ちが湧いてくるでしょう。しかし、もし自分の心が恐れや不安で満ちていると、このような良い結果を望むことはできません。このプログラムは、私たちが住むこの世界で、今、必要なものであり、来世の話ではないのです。心が安らかで落ち着いている時、教育はより高い効果を発揮します」
ゲシェ・ロブサン・テンジン氏は、法王のお考えを反映させるために次のような解説を加えた。世俗の倫理教育を普通教育のカリキュラムに取り入れるという構想の根本的理念は、慈悲の心(思いやり)を高めることであり、それには3種類のスキルが必要とされる。第1のスキルは自己修練であり、これには、心身を平穏に保つ、注意力の学習、感情の認識、自己管理の能力が含まれる。第2のスキルは他者との人間関係に関するものであり、これには、他者への感謝、他者への共感(感情移入)、人類の共通点の認識、社会的能力が含まれる。第3のスキルは決断を下す責任感であり、これには、相互依存の評価、批判的思考の適用が含まれる。
ダニエル・ゴールマン氏は、既存の教育機関では、慈悲の心に十分な焦点が置かれておらず、相互依存についての理解が乏しいため、解決できていない問題がたくさんあるが、世俗の倫理教育の構想は、これらの注意を向けられていない問題点にきちんと目を向けていることを評価した。
続けて、ゴールマン氏は、間違った認識を引き起こす可能性がある「世俗」という言葉の使い方についても疑問を投げかけ、「世俗」という言葉にこだわりをお持ちなのかどうか、と法王に質問した。法王は、「世俗」という言葉に対するこだわりはないが、この言葉を使うときはいつも、インドで伝統的に使われている「世俗」という言葉の意味をはっきりと説明している、と述べられた。インドでは、「世俗」という言葉は、すべての宗教、そして信仰を持たない人たちに対しても一切の偏見を持たず、尊重の気持ちを持つ、という意味で使われている。マーク・グリーンバーグ氏は、倫理的な面だけを強調すると、抽象的な哲学のように聞こえるのではないかという意見を述べた。
リンダ・ランティエリ女史は、これまで述べられてきたほとんどの意見に賛成であること、また世俗の倫理教育の構想が慈悲の心と相互依存に焦点を当てていることは評価に値すると述べた。
会議の終盤に、法王は、何か付け加えることはあるかと尋ねられ、心と感情の働きについて簡単に説明しておくと皆さんの役に立つでしょう、と述べられた。故毛沢東主席の文化革命がもたらした破壊性と比較して、このプログラムが中国にもたらすであろう利益を中国に紹介することにより、教育面における文化革命を起こすことのできる可能性を私は心に描いている、と法王は語られた。
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講演の始めにスーザン・ブルックス下院議員から紹介を受けた返礼にカタを贈られるダライ・ラマ法王。2016年6月25日、アメリカ、インディアナ州 インディアナポリス(撮影:デニス・ケリー)
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昼食後、スーザン・ブルックス下院議員は、インディアナ・ファーマーズ・コロシアムに集まった6,500人の聴衆に向かって、何十年にも渡り、慈悲の心の大切さを人々に説き続けてきた平和を象徴する人格者として法王を紹介した。
「兄弟姉妹の皆さん、私は今日ここに来られたことをとても嬉しく思います。様々な信仰を持った多くの人たちにお目にかかり、お話をする機会をいただいたことを大変名誉なことだと感じています」と法王は講演を始められ、次のように述べられた。
「チベットを離れてからの57年間、インドは私の第二の故郷となりました。インドにはゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など外の世界から入ってきた様々な宗教が存在し、これらの宗教が、サーンキヤ学派、ジャイナ教、仏教などインド古来の伝統と共存し、繁栄してきたことに感銘を受けています。インドは、異なる宗教間の調和を保つことは可能だということを示してくれています。これらすべての伝統宗教は、愛と慈悲、許し、寛容、知足、そして実直に生きることなど共通のメッセージを伝えています。自己管理能力は、これらのメッセージが持つもう一つの側面です。それぞれの宗教が主張する哲学的見解は異なっているかもしれませんが、慈悲の心を育む実践などは同じ目的を持っています」
「今日の世界では、私たちは皆兄弟姉妹であるという感覚を持つことが必要とされています。私たちは皆、ひとりの人間であるという意味において、基本的に全く同じだからです。人類はひとつの人間家族であるという認識をもっと高めることができれば、殺戮、貧富の差、肌の色や社会的地位、カーストなどによる人種差別も起きることはないでしょう。宗教の名のもとに殺し合いをするなど、考えられないことです。宗教に信心をするかどうかは個人の自由ですが、もし宗教を受け入れるのであれば、真摯に向き合ってその教えを実践してください」
「このような理由から、私は“イスラム教テロリスト”や“仏教テロリスト”などという表現をすることに反対なのです。ある人がテロリストとなり、他者を傷つけた時点で、もはや真のイスラム教徒や仏教徒とは言えません。私は、イスラム教徒を苦しめていると報告されているビルマの僧侶たちに対して、彼らを守護されている仏陀のお顔を思い出すようにと懇願しました」
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インディアナ・ファーマーズ・コロシアムで「世界平和の柱としての慈悲の心」について講演をされるダライ・ラマ法王。2016年6月25日、アメリカ、インディアナ州 インディアナポリス(撮影:デニス・ケリー)
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「今回、アメリカへ来る途中、ロンドンのヒースロー空港で、ある人が81歳になる私の顔を見て、60歳にしか見えませんがその秘訣はなんですか、と尋ねました。私は最初冗談で、それは秘密なのでお答えできません、と言いましたが、その後で、その秘訣は平穏な心を維持することですよ、と説明しました」
さらに法王は次のように述べられた。「気候変動や世界経済など今日起きている問題は、それぞれの国内で解決できる問題ではないという視点から、現実的に見ても、それぞれの国は互いに依存しあっているのだという認識を持つことが大切です。そして、宗教的な観点からではなく、思いやりの心を普通教育のカリキュラムの中に導入する方法を見つけることが必要とされています。今朝、専門家たちやこの構想に関心を持つ人たちと会議で話し合ったところですが、すべての人が共通して持っている人間価値を高めようという動きを世界に広く発信していかなければなりません」
「では、どこから始めればいいのでしょうか? 国連でしょうか? それともホワイトハウスでしょうか? いいえ、違います。大切なのは、私たち一人ひとりが自分の心に平和を築くことなのです。もし、私たちが思いやりの心を育み、それを10人の人と分かち合って、その10人が更に他の10人と分かち合うならば、思いやりの心はどんどん広がっていくのであり、このように考えてみると、私たちにはより良い世界を築くことのできる能力が備わっているのです。もし、21世紀初頭を迎えた今も、私たちが問題解決の手段として前世紀同様、武力行使を続ければ、今世紀もまた惨めな時代になってしまうことでしょう」
「以前、私が広島で開催されたノーベル平和賞受賞者会議に出席した時、神のお恵みによって世界に平和が訪れるであろうと述べた人がいました。そこで、私が意見を述べる番が来た時、お恵みを待つのではなく、私たちが行動を起こさなければならないのだと私は言いました。暴力沙汰や戦争を引き起こしているのは私たち人間なのですから、平和を築くために行動を起こすべきなのは、私たち自身なのです」
質疑応答の時間になると、聴衆から多くの質問が挙がったが、その中の数人は、ただ法王に握手を求めた。ある質問に対して、法王は、私たちの心が怒りで満ちている時、怒りの対象は完全に否定的なものとして見えるが、その90%は自分自身の心の投影にすぎないという、精神科医であるアーロン・ベック氏の研究結果に触れられた。非暴力について質問されると、暴力と非暴力の真の境界線は心の動機にあり、慈悲の心が暴力を起こすことは決してない、と法王は述べられた。
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質疑応答セッションで、ダライ・ラマ法王に質問をするため列に並ぶ聴衆。2016年6月25日、アメリカ、インディアナ州 インディアナポリス(撮影:デニス・ケリー)
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質問者の一人は、多くの人にとって是非とも会ってみたい人物は法王であるとお伝えしたうえで、法王ご自身は、誰に会われたいかと質問した。法王は、鋭い頭脳と逆境に直面しても揺るがない心を持つスティーヴン・ホーキングに感銘を受けている、と答えられた。また、マーチン・ルーサー・キング牧師の夫人にはお会いする機会があったが、キング牧師にも是非お会いしたかった、と述べられた。そして、法王は、現在ヨーロッパが直面している難民危機に対して「慈悲の心」という言葉を何回も繰り返されたご友人のデズモンド・ツツ大主教とドイツのアンゲラ・メルケル首相のお二人に会えたことをとても嬉しく思っている、と語られた。
法王ご自身の人生について質問されると、法王は次のように答えられた。
「私は特別な人間ではありません。私たちは皆、人間としての同じ心、からだ、感情を持っています。私たちは全員、幸せな人生を送りたいと願っていて、幸せになる権利があります」
別の質問者が、母親の立場として、小さな子供が生まれ持った良い性質を守るためにはどうすればいいのか、と法王にお尋ねすると、法王は、母親は愛と慈しみの心で子供とできるだけ多くの時間を共に過ごすことが大切である、とアドバイスされた。そして、「私に思いやりの心を教えてくれた最初の先生は、私の母でした」と述べられた。
質疑応答の時間が終了し、長い列に並んで待っていた人々の質問に答えられなかったことを法王は謝罪された。主催者の代表が、今回法王が、インディアナポリスご訪問中に出席された様々な行事の会計報告を簡単に発表した。残高は地元インディアナポリスの慈善事業に寄付される。
最後に法王は、今日ここでお話しした内容についてもう一度よく考えてみていただきたいと聴衆に語られて、もしそれが意義あることだと思えたなら、是非それを実行していただきたい、と訴えられた。そして法王はゆっくりとステージから降りられた。聴衆席の前列の人たちと握手をしたり、言葉を交わしたり、著書へのサインにも応じられて、喜びに満ちた人々が法王との自撮り写真を撮るために、しばらく立ち止まられたりした。
明日、法王はインドへの帰国の途に着かれる。