インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ダラムサラ
今朝、ダライ・ラマ法王はツクラカンに到着され、法座のまわりの人々に挨拶をして着座された。『般若心経』が唱えられ、続いてナーガールジュナ(龍樹)の『中論』より釈尊への帰敬偈を唱えられた。そして法王は、釈尊をはじめとする過去の7人の仏陀たちが説かれた共通の教えをひとつにまとめた「七仏通誡偈」を引用された。
- 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
- (一切の悪い行ないをせず
- さまざまな善き行ないをして
- 自らのかき乱された心を鎮める
- それが仏陀たちの教えである)
本堂内の法座の後方、釈迦牟尼仏像の左右の壁には、チベット語、ヒンディー語、英語で記されたこの偈が額縁に入れて掲げられている。
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チベット人学生のための法話会2日目、ツクラカンの本堂で法話を行われるダライ・ラマ法王。2016年6月2日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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法王は、悪い行ないと善い行ないは絶対的なものではなく、相対的なものであると述べられ、釈尊の前世の物語(ジャータカ / 本生譚)の中からある船長の物語を語られた。釈尊がある前世において船長だったとき、その船に乗っていた500人の裕福な商人のうちのひとりが他の商人たちを皆殺しにしようと考えていることに気づき、彼を殺すことで他の499人の命を救われた。さらに、その悪人を殺して499人の商人たちの命を救うだけでなく、商人たちを殺した結果として地獄に落ちないようにその悪人をも守られたのである。この物語では、ひとりの人間の命を奪うという行ないは不徳を積む悪い行ないであるが、もしそれがより重要な目的のために善意によってなされた場合には、その行為によって積まれる徳の力の方が優っている、ということを示している。
さらに法王は、次のように付け加えられた。
「私たち仏教徒は悪い行ないをすべきではありません。なぜなら、自分がその報いを受けることになるからです。単に釈尊がそうおっしゃっているからではありません」
法王は、自らのかき乱された心を訓練して鎮めるべきことが説かれている先に引用した偈に言及されて、“心とは何か”という疑問を提示され、“心とは脳の機能にすぎない”と主張している科学者たちがいることを語られた。
その後、ダラムサラのチベット子ども村(Tibetan Children's Village, TCV)の生徒たちが問答の基礎である色(色彩)に関する問答を行ない、続いて少し年長の生徒たちが因(原因)と縁(条件)についての問答を行なった。それが終わると、地元の仏教学習グループで学んでいるひとりの生徒が次のように語った。仏教を学ぶことは自分にとても良い影響を与えた。「二つの真理」(二諦)を学ぶことで自分は変わり、一切有情(すべての生きとし生けるもの)に受けてきた恩に感謝するようになった。また、すべての生きとし生けるものたちのおかげで悟りに至ることができるだけでなく、私たちが日常生活において享受しているすべてのものは彼らに依存して得られているということも理解することができた、と。法王はこの生徒に対して、そのような理解が得られたのは、“教え(仏法)が役に立った”ということだと言われた。
別の生徒が立ち上がり、法王のたゆまぬご尽力のおかげで若いチベット人たちは自らの文化の価値を学ぶことができた、と法王に対して感謝のことばを述べた。そして、これまで亡命先のチベット人学校で学んできた卒業生、現在学んでいる在校生、これから学ぶ将来の学生たちを代表してもう一度感謝の意を表し、法王に薬師如来のタンカ(仏画)を捧げた。
法王は脳と心の関係に話を戻された。20世紀の終わりごろより、科学者たちから脳とは別個に存在する微細な意識が存在するのではないかと訊かれるようになったが、法王はその質問をそのまま何人かの科学者たちに問い返されてきた。もし、受胎に必要とされる子宮、卵子、精子という肉体的な条件が揃っていれば、それだけで自然に妊娠するのか、と。その答えはNOである。のちの生を受けた時に生じる意識の実質的な因、すなわち、微細な意識が存在しなければ、受胎は不可能だからである。このように、微細な意識が存在しなければ説明がつかないのである。
そこで法王は、自我、つまり人とは、からだと心という構成要素の集まりに対して与えられた単なる名前に過ぎない、という中観派の見解を繰り返し述べられた。
「以前、インド北西部の都市アムリトサルで行われた宗教間会議において、ラジャスタン州アジミールから来たスーフィー教の導師がこのような提示をされました。すべての宗教は三つの問いに答えている。”自我”とは何か、“自我”には始まりがあるのか?“自我”には終わりがあるのか?という三つの問いである」
「仏教徒は、実体を持って他に依存せずに自らの力で存在する自我はなく、自我とはからだと心という構成要素に依存して存在していると主張しています。そうであるならば、意識には始まりがないのですから、自我にも始まりはありません。しかし、自我に終わりがあるかどうかについては、仏教の哲学学派のひとつである説一切有部が、阿羅漢が死ぬときその意識の連続体は消滅し、自我も消滅すると主張しています。しかし説一切有部以外の学派はこの見解を受け入れていません」
法話の間の短い休憩時間に、生徒たちは法王に質問をした。最初の生徒は、仏陀・仏法・僧伽という三宝への帰依だけが仏教徒たる基準なのかという質問をした。法王は次のように答えられた。「四法印」すなわち、
- 諸行無常 一切皆苦 諸法無我 涅槃寂静
- (あらゆる現象は変化してやまない
- すべての作られたものは因と縁に依存して生じたものなので実体がない
- 輪廻における存在の本質は苦しみである
- 涅槃の境地は安らぎである)
という四つの教義を受け入れていることが、もうひとつの仏教徒たる基準となる。
仏教の四つの学派について質問した別の生徒に対して、法王は次のように言われた。釈尊は、初転法輪で「四つの聖なる真理」(四聖諦)の教えを説かれたとき空について説かれているが、第二転法輪(無相法輪)で説かれた智慧の完成(般若波羅蜜)の教えにおいてより明確に詳しく空について説かれている。そして、後世のナーランダー僧院の導師たちは釈尊が説かれた空の教えについてさらに詳しく解説されている。
ひとりの生徒は、昨年の法話会で法王から「毎日、死と無常と出離の心について瞑想しなさい」というアドバイスをいただいたので、それに従って瞑想していると感謝の気持ちを表した。法王はこの生徒をほめ、よく学び、謙虚さを維持し、慈悲の心を育むように奨励された。別の生徒は、今生で学んだことは来世の役に立つのかという質問をした。法王は、最初は理解するために読んだり聞いたりしたことばに頼る必要がある。しかし、それらについて深く考察するうちに、教えに確信を持てるようになり、元のことばを覚えていなくても、理解した内容が心にとどまるようになる、と答えられた。
再び法王は、ドムトンパの『自らの心の連続体を励ます信心の木』の続きを読み進められた。ラマ(師)が備えるべき資格については律蔵の中に説明されており、そこには必要とされる十の資格が示されている。法王はツォンカパのことばを引用されて、他者の心を鎮めようとする導師は、まず自分自身の心を鎮めていなければならない、と述べられた。菩提心について述べられている箇所にくると、法王は、菩提心には数多くのすぐれた特質があるが、そのひとつは、菩提心を持つ者には勇気と自信がもたらされることであると述べられた。
法王は、明日は菩薩心生起の儀式を行ない、この法話会は主に学生たちを対象としているため、それに続いて仏陀の智慧の体現者である文殊師利菩薩の許可灌頂を授与することを告げられた。
そして法王は、「私自身の個人的な経験から言うと、分析的な瞑想を修習することに加えて文殊師利菩薩に祈願するならば、智慧と知性を向上させることができます」と述べられて法話を締めくくられた。