アメリカ、ウィスコンシン州 マディソン
春めいた晴れやかな朝、ダライ・ラマ法王は車でマディソン市へ向かわれた。ほとんどの店やオフィスはまだシャッターを閉めていた。マディソン市に近づくにつれて、空を突き刺さすようにそびえ立つ州議会議事堂の尖塔が見え始め、やがて角を曲がってオーバーチュア芸術センターに近づくと、優美に天高くそびえる議事堂が姿を現した。リチャード・デビッドソン博士が法王をお迎えし、プロムナード・ホールへお連れした。
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健全な心のためのセンターのジュリア・フィッシャー・ファーブマン氏のインタビューを受けられるダライ・ラマ法王。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
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法王は、この日の主なイベントである討論会「私たちのつくる世界 〜 幸せな2030年を目指して」と題した討論会が始まる前に、午前に3本のインタビューに応じられた。法王は、健全な心のためのセンター(the center for Healthy Minds)のジュリア・フィッシャー・ファーブマン氏に、「人間は、すばらしい脳のおかげで、言葉をはじめとする人間独自の能力を使うことができるのです」と述べられた。科学者たちもまた、人間には基本的に愛情深い性質があることを明らかにしている。したがって、教育を通して愛情を深めることができるという確固たる見通しがあるのである。
また法王は、「今よりも幸せな世の中を築くことは、すべての人の願いです」と述べられた。しかしながら、現代教育は外面的な価値や物質的発展を優先する傾向にある。今直面している問題の多くは私たち自身がつくった問題なのだから、私たちは、倫理観や内面的な価値を新たにしていかねばならない。法王は、「かき乱された感情が心の平和を破壊する一方で、心を訓練することによって心の平和を取り戻すことができるのです」と助言された。
ナショナル・ジオグラフィック誌のゲイリー・ネル氏は、インタビューを始める前に、同誌が保管していたチベットの写真を法王にお渡しした。ネル氏が法王に、自然保護と人間の行動のバランスをどのように取っていくべきかお尋ねすると、法王は次のように答えられた。
「複雑な問題です。世界の人口は増え続けているのですから、開発を制限するだけでは解決策にはなりません。しかしながら、天然資源は減少していて、すぐに水不足に陥るおそれがあることを気候変動は警告しています。私は、サハラ砂漠に太陽光パネルを設置してはどうかとたびたび考えてきました。太陽エネルギーで海水淡水化プラントを稼働させ、飲料水や工業用水、農業用水をつくるのです。この水は、砂漠の緑化にも役立てることができます。また、武器や兵器につぎこんでいるお金を、貧しい人たちを救うために使うほうがよいことも明白です」
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ダライ・ラマ法王へのインタビューに先立ち、過去にナショナル・ジオグラフィック誌に掲載されたチベットの写真を紹介する同誌代表のゲイリー・ネル氏。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
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科学技術に関する質問で、世界の人口と同数の携帯電話が普及していることについてご意見を求めると、法王は、「それがよいことか悪いことかは、利用する側の動機次第です」と述べられた。科学技術は私たちを助けるためにあるのだから、科学技術の奴隷にならないことが大切なのである。
ネル氏が、「猊下がご自身の励みとしておられる人物を教えてください」とお願いすると、法王は、マハトマ・ガンジー、ネルソン・マンデラ、マーティン・ルーサー・キング、そしてご友人のデズモンド・ツツ元大主教の名前を挙げられた。法王は、「昨今、彼らに共通して見られる内面的価値が軽視される傾向があるのは、現代の教育システムが外面的な物質的発展を重視していることが原因にあります」と述べられた。
ABCニュースのニュースキャスターとして知られるダン・ハリス氏は、自身の瞑想経験について『10% HAPPIER』(人気ニュースキャスターが「頭の中のおしゃべり」を黙らせる方法を求めて精神世界を探求する物語)という本を書いたことにふれて、猊下のような最高峰の宗教指導者が科学に興味を持つに至られた経緯を教えてください、とお願いした。法王は、「科学には子どもの頃から興味を持っており、科学が人類にもたらした恩恵の数々を目にしてきました。しかしながら、科学は物質的な面では進みましたが、心や意識のことにはまだ十分に目が向けられていません」と述べられ、さらに次のように語られた。
「これは大切なことです。身体的な安楽だけでは心に平和をもたらすことはできません。心の平和は、内なる心でつくるものだからです。ストレスや不安は、心を訓練することによって対処しなければなりません。瞑想には、分析的な瞑想と一点集中の瞑想の二種類がありますが、ただ目を閉じて、思いに耽ることが瞑想なのではありません。瞑想だけでは生きていけませんが、人間には知性という偉大な贈り物が与えられているのですから、知性を用いて瞑想をしなければなりません」
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「私たちのつくる世界」と題する討論会について紹介するウィスコンシン大学総長のレベッカ・ブランク氏。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
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再びプロムナード・ホールに集うと、オバマ政権の元商務長官でウィスコンシン大学総長のレベッカ・ブランク氏が開催の言葉を述べた。ブランク氏は、健全な心のためのセンターがウィスコンシン大学の一員であることを誇りに思う、と語り、センターの学際的アプローチが大学に役立っていることを強調した。最後にブランク氏は、この科学研究が実社会で活用される日をたのしみにしている、と語った。リチャード・デビッドソン博士は、同センターに勤務する5人の科学者たちを紹介し、その研究についての発表へと進めた。
レジーナ・ラパテ氏は、感情の処理における認識の役割をどのように評価しているか説明した。ラパテ氏は、認識することによって感情制御の回路が向上することを発見したのである。そこで法王に、認識についてご意見を求めると、法王は認識の重要性にうなずかれ、「認識できなくては、歩くことすらできませんね」と述べられた。
コートランド・ダール氏は、人類の繁栄に関する研究について発表すると、世俗的な暮らしにはどのような分析的瞑想が適しているでしょうか、と法王にお尋ねした。法王は、「瞑想には二種類ありますが、一点に集中する瞑想と分析的な瞑想は、目的によって区別されるのではなく、瞑想を行なうときの方法によって区別されます」と説明されて、分析的な瞑想を綿密な科学研究にたとえられた。
マット・ヒルシュベルク氏は、「学校の新しい方向付け」について発表し、幸福は心の基本的な性質であることを強調した。メリッサ・ローゼンクランツ氏は、炎症とストレスの関係と、炎症の抑制における瞑想の役割について説明した。ローゼンクランツ氏は、喘息やアルツハイマー病にも炎症が作用していることに言及した。瞑想によって炎症を抑制することができれば、健康問題も大きく変わるはずである。
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「私たちのつくる世界」と題する討論会の午前の部の登壇者たちと並んでステージに立たれるダライ・ラマ法王。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ジェレミー・ラッセル、法王庁)
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最後に、ペリン・ケセビル氏が、「20世紀のアメリカ文化における道徳的卓越性」と題して調査報告をした。ケセビル氏はGoogle Books Ngram Viewerというデータベースを用いて、倫理的な内容を構成する言葉の使用頻度の低下を追跡した。ケセビル氏は、「ダライ・ラマ」という言葉の使用頻度が増加していることを指摘した。また、倫理的な言葉の使用頻度が低下しているにもかかわらず、「思いやり」という言葉の使用頻度が著しく増加しているのは、仏教に対する関心が高まっていることの現われである、と指摘した。
法王は、「ストレスや怒りや不満があまりにも多いときは、その原因を分析し、心を穏やかにしてくれるものについて考えるとよいでしょう」と述べられた。正しい訓練を積めば、怒りでさえも穏やかさや思いやりに変えることができるのである。法王は、このような訓練が支持されていることに、深い感謝の念を表明された。
健全な心のためのセンターが主催した昼食会では、バーバラ・マシソン氏が同センターに対する法王のご尽力に感謝の言葉を述べるとともに、リチャード・デビッドソン博士のことを「哲学と科学の交差点で巧みに舵を取る特別な人物」と称した。マシソン氏は、お二人が力を合わせることによって、非常に価値あるものが生まれていることを強調した。
作家のダニエル・ゴールマン氏は、リチャード・デビッドソン博士と共にケンブリッジ大学で心理学を修めた1970年代を振り返った。後に「心と生命会議」が始まった際、法王は二人に対し、「チベット仏教には、破壊的な感情(煩悩)に対処するためのさまざまな方法があります。あなた方の研究室で、これらの方法を試してみてはどうでしょう。有効性が証明されたら、多くの人とその方法を分かち合って、ほかの人たちにも手の届くものにしてください」と述べられている。それは当時の心理学研究の流れに逆らうことを意味したが、リチャード・デビッドソン博士は、法王の勧めに従った。そして現在、デビッドソン博士と健全な心のためのセンターは、煩悩を克服するための対策をより幅広い分野で、より多くの人々のために役立てる方法を見いだしているのである。
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「私たちのつくる世界」と題する討論会の午後の部に登壇されたダライ・ラマ法王とリチャード・デビッドソン博士。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ダレン・ハック)
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「私たちのつくる世界」の午後の部は、プライス・ウォーターハウス・クーパース、ナショナル・ジオグラフィック誌のゲイリー・ネル氏、心と生命研究所のスーザン・バウアー・ウー氏ら支援者たちによる賛辞で幕を開けた。続いて、アーロン・スターン氏と愛情についての学習アカデミー(Academy for the Love of Learning)のメンバーによる音楽が披露された。リチャード・デビッドソン博士は、眩しい照明から目を守っていただこうと“心を変えれば、世界が変わる”と記された野球帽を法王にお渡しして、ABCニュースのダニエル・ハリス氏を司会者に招き、対話を開始した。ハリス氏は、瞑想には“人生を変える”効果があるという科学的証拠に感銘し、自身も瞑想をするようになった、と語った。
リチャード・デビッドソン博士は、幸福が習得可能なものであることを断言すると、博士がその習得に役立つことを突き止めたという4つの構成要素を紹介した。
第一の要素は、立ち直る力である。これは、逆境に立たされたとき迅速に立ち直ることを意味する。第二の要素は、肯定的なものの見かたをすることである。デビッドソン博士は法王のほうに向き直ると、これは猊下から学ばせていただいたことですが、と述べて、そのようにしていると、だれに会ってもその人の基本的な長所が目に入ってくる、と語った。第三の要素は、集中力である。デビッドソン博士は、注意散漫な心は不幸な心である、と語った。第四の要素は、寛容である。デビッドソン博士は、幸福というものは、この4つの要素を土台として学ぶことのできる技術であることを多くの人々に知ってもらいたい、とまとめた。
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「私たちのつくる世界」と題する討論会の午後の部で、プレゼンテーションを行なうソーマ・スタウト氏。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ダレン・ハック)
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心理学者のソナ・ディミジアン氏もまた、世界を平和にしたいなら、心の平和、つまり内なる平和を感じることが必要である、と主張した。ディミジアン氏は、人はいかにして幸福を育むことができるかということを調査している、と語った。ディミジアン氏は、妊娠中および産後の女性のうつ症状を予防・治療するために瞑想や認知療法を採り入れることに取り組んでいる。ハーバード大学医学部で一億人のより健康な生活(100 Million Healthier Lives)の代表を務めるソーマ・スタウト氏は、「幸福」と「公平」というレンズを通して、いかにして世界中の人々の暮らしを向上させていくかについて語った。
法王は、ここまでの総括として次のように述べられた。
「人間は社会的な生活を営んで生きていく動物ですから、他の人たちと力を合わせて働くのはごく自然なことです。各個人の生存は、他の人々に依存しています。私たちは互いに、きわめて大きく依存し合っているのです。そして、『心を変えれば、世界が変わる』というこのスローガンもまた、変革は自分自身を変えることから始めなければならない、ということを思い出させてくれます。心の強さや自信を築くには、他者の幸福を考える心を培い、あたたかい心を育むことです。もちろん自己の幸福も大切ですが、他者の幸福を考えることによって自己の幸福を求めるのが賢い求めかたであり、狭い視野で自分のことだけを考えるような愚かなことをしてはいけません」
ダン・ハリス氏は、注意深さと瞑想の話というのは暗に仏教の紹介なのではないか、という批判があった、と述べ、法王に意見を求めた。法王は、世界の主要な宗教はすべて人々のためのものであり、どの宗教でも愛や思いやり、寛容、許し、自己規制を深めるよう促している点を強調された。たとえアプローチの方法が違っても、同じひとつの目標を分かち合っているのである。
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「私たちのつくる世界」と題する討論会の午後の部で意見を述べられるダライ・ラマ法王。2016年3月9日、アメリカ、ウィスコンシン州マディソン(撮影:ダレン・ハック)
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法王は、スペインのモントセラートの修道士の話をされた。その修道士は山に5年間籠って隠遁者として修行をしていたので、法王が、何について瞑想していたのかお尋ねになると、愛について瞑想していたのです、という答えが返ってきた。そう語る修道士の目は、真のよろこびにあふれていた、と法王は述べられた。続いて法王は、チベットで中国によって18年間投獄されていたチベット人僧侶の話をされた。その僧侶が、「何度か危険に直面しました」と語ったとき、法王は、命の危険にさらされたことを言っているのだと思われた。しかし、さらに話を聴くと、自分を捕え、拷問している者たちに対する思いやりを失う危険に直面したという意味だったので、深い感嘆の念に打たれた、と述べられた。そして最後に、信心する宗教が何であれ、この二人のように真剣に実践することが大切であることを強調された。
討論会の終わりに、ダン・ハリス氏が、たとえば過激派組織「イスラム国」(IS)のような残虐な勢力に対する武力行使は正当なことでしょうか、とお尋ねすると、法王は次のように答えられた。
「これは難しい問題です。彼らのためを考えて厳しい制裁を加えることは、場合によっては有効かもしれません。しかしたいていは、武力行使は避けるほうがよいのです。もともとの目的が何であれ、いったん武力を行使すれば、歯止めが効かなくなるというリスクが必ずあります。平和を模索する、ということは、一切の争いがなくなる、という意味ではありません。人間は常に問題に直面するものですが、その問題を武力ではなく、対話によって解決していくことを学ばねばなりません。21世紀が、20世紀のような流血の世紀になることを避けるには、これは大切なことです。人間は何百年も平和を祈り続けてきましたが、さほど成果は出ていません。平和を実現するには、対話という行動が必要なのです」
「私は、もし今、イエス・キリストや仏陀にお目にかかって、どうか世の中を平和にしてください、とお願いしたなら、あなたがたが直面している問題はいったいだれがつくったのですか、と言われるのではないかと冗談を言うことがあります。問題をつくったのは私たちなのですから、解決する責任も私たちにあるのです。誠実な動機と知性と思いやりをもって、短期と長期の結果を考慮しながら、対話の準備を進めていく必要があると思います。これが、私が考えている現実的なアプローチです」
最後に、リチャード・デビッドソン博士は、センターの友人や支援者たちに謝意を表明した。そして、とりわけ法王に感謝を捧げて、どうかまた、何度も何度もいらしてください、とお願いした。討論会が終わり、法王は車でマディソン空港へ向かわれて、インドへの帰路の旅に着かれた。