「私たちが抱えている多くの苦しみは、執着、怒り、無知から生じています。その中でも、苦しみの源は無知である、と仏陀は説いておられます。どのようにしたら無知を克服できるのでしょうか? 祈りや仏陀のお加持によって苦しみを克服することはできません。無知を滅するためには3つの修行(戒律・禅定・智慧)の実践が必要です。その中で最も重要な修行が智慧を育む実践であり、これは、無我の見解を理解する智慧を意味しています。教えを聞き、読み、それについて考え、瞑想を通してそれを心に馴染ませることにより、無我の見解を理解することができるのです」
「空とは、何も存在しないという意味ではありません。そうではなく、すべての現象は確かに存在し、単なる名前を与えられたものとして機能を果たしているのです。『般若心経』には、「色即是空、空即是色」と言われていますが、それは色(物質的な存在)と空が互いに依存しあって存在しているからです。「色とはすなわち空である」とは、色(物質的な存在)にはそれ自体の側から存在している実体がない、ということを意味しています。これについては、中国語にも翻訳されているナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論偈』と、現在台湾で翻訳が進められているチャンドラキールティ(月称)の『中観明句論』に詳しく解説されています。
「1954年から1955年にかけて私は北京で6ヶ月間を過ごし、毛沢東主席と数回会いました。主席は私に関心を持ったようで、チベット本土に住むチベット人たちの幸せと生活改善のために助言をしてくれました。当時の毛主席は前向きな考えかたをしていたので、そうした考えがもしその通りに実現されていれば、チベットがその後直面した問題は避けられたかもしれません。主席は私のことを、科学的な考え方をする人間だと言いましたが、同時に、宗教は麻薬だとも言いました。もし毛主席が今日ここにいて、ナーランダー僧院の仏教の伝統を知ったなら、こうした考えかたはしなかったかもしれません」
中国人の参加者たちに法王への質問が求められた。最初の質問は、再び空に関するものであった。2つ目の質問は、阿羅漢と菩薩の違いについてであり、法王は、阿羅漢とは、人に関する無我(人無我)を理解し、悪しき感情(煩悩)を克服した人のことだと答えられた。そして、菩薩とは、それに加えて、人以外のすべての現象の無我(法無我)をも理解することによって障りを克服した人のことであり、こうした理解は、菩薩心を起こすことで積んだ大いなる功徳に支えられて得ることができる、と述べられた。
謁見の終わりに、仏教を評価する姿勢が今後も中国で高まっていけば、先週セラ僧院で行なわれた仏教徒と科学者による「心と生命会議(Mind & Life conference)」のような対話の場を中国でも開催できるようになるかもしれない、と法王は述べられた。
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ダライ・ラマ法王によるラムリム(菩提道次第論)法話会の壇上からの光景。2015年12月22日、インド、カルナータカ州バイラクッペ、タシルンポ僧院(撮影:テンジン・チョンジョル、法王庁)
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謁見を終えて、再びタシルンポ僧院のベランダに置かれた法座に座られたダライ・ラマ法王は、仏陀は、悟りに至ることを妨げる悪い行ないを避け、煩悩を克服する方法を示された信頼に値する偉大な方である、と述べられた。また、ツォンカパ大師は、ラムリム(菩提道次第論)の教えの中で、最も重要な教えは「四つの聖なる真理」(四聖諦)であり、どのような教えであっても弟子たちは「四つの聖なる真理」を通して悟りに導かれるべきである、と述べられている。この教えを土台として、私たちは今世と来世の苦しみを滅することができるのである。
法王は、シャマル・パンディッタ(シャマル・ゲンドゥン・ギャツォ)の『シャマルの菩提道次第論』の解説に戻られて、大切なのは自分の行ないをよりよいものに変えていくことだと述べられた。カダム派のゲシェ・ぺン・クン・ギャルは、一日の終わりに、自分がその日にしたよい行ないと悪い行ないを白と黒の石を使って数え、それを毎日続けることで自分の行ないを正したと言われている。
仏陀は、「苦しみを認識するべきである」と説かれた。テキストでは、すべては移り変わっていくという苦しみ、満足が得られない苦しみ、何度も死んでは生を受け、何度も輪廻に生まれ変わる苦しみ、三善趣と三悪趣を何度も行き来する苦しみ、友が得られない苦しみなどが挙げられている。
現実の苦しみとそれをどう克服するかについて、法王はインド中西部ナグプール近郊のババ・アムテのアシュラムを訪問されたときのことを話された。そこでババ・アムテはハンセン病に苦しむ貧しい者たちのコミュニティで人々と時間を共にし、そこで人々が様々な技術を習得するための研修を受けさせていたことを語られた。それにより、人々は不自由なからだでも働けるようになり、自らの仕事に大きな自信と誇りを持って、訪問者を喜んで受け入れていた。ノーベル平和賞を受賞したとき、法王は賞金の一部をこのアシュラムに寄付されたことも語られた。
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ダライ・ラマ法王のラムリムの法話を聞きながらテキストを追う僧侶。2015年12月22日、インド、カルナータカ州バイラクッペ、タシルンポ僧院(撮影:テンジン・チョンジョル、法王庁)
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「最近、私の自宅で耐震強化の工事が行なわれました。チャッティースガル州とビハール州から来た労働者たちは最初は無愛想でしたが、私と友人になると、彼らは毎日明るく仕事にやってくるようになりました。誰もが不満を持っているものです。王や女王から道端の乞食まで、問題を抱えていない人などどこにもいません」
法王は、死と死に至る過程について考えることは大いなる勇気の源となるものであり、ご自身も1日に何度も死の瞑想をされていると述べられた。
宇宙論について、法王は、仏陀は世界の大きさを測るために私たちの世界に現われたわけではないと、日頃から述べられていることを繰り返し述べられた。経典に書かれている宇宙の成り立ちについての説明は、そのほとんどが時代遅れである。法王がラサにおられたとき、持っていた望遠鏡で月面の影を観測され、それによって月は自ら光を放っているのではないことが明らかになったという思い出を語られた。
昼食後、法王は自分で自分を苦しめる行ないについて、ある話をされた。法王がまだラサにおられたとき、ダライ・ラマ13世が所有されていた3台の自動車があった。この自動車を管理していたのは頭が禿げた短気な運転手だった。法王は、その運転手がある日1台の自動車の車体の下で作業をしており、そこから出ようとして車体に頭をぶつけたのを見た。運転手はそれに腹を立てて、何度も自分の頭を車体にぶつけていた。
「怒りに駆られて行動すると、よいことよりも悪いことが必ず多く起きてきます。言葉使いは激しくなり、悪い行ないをしてしまいます。さらに、怒りと疑いは人間の健康を害するという事実は、医学専門家が実証しています」。
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ラムリムのテキストを読まれるダライ・ラマ法王。2015年12月22日、インド、カルナータカ州バイラクッペ、タシルンポ僧院(撮影:テンジン・チョンジョル、法王庁)
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「現代教育は、主に物質的な発展に重点を置いており、心を培うことを軽視しています。私たちは、仏教の教えの中で説かれている心理学の知識を、宗教色なしに活用することができます。人間の様々な感情が、どのように機能しているのかをよく理解できたなら、時には慈悲を動機として怒りが湧いてくることもあるということが理解できるかもしれません。その場合、怒りは破壊的なものではありません。こうしたことは、今を生きる私たちにとってとても役に立つ教えです。そこで、最近私たちは、アメリカ、カナダ、インドの学校で世俗的な倫理観を教えるための方法を模索しています」
テキストに書かれた悪い感情(煩悩)についての議論を深める中で、法王は傲慢さと誇りの違いを明らかにされた。傲慢な心は、相手を負かした時に生まれるのに対して、誇りは自分が成し遂げたことや、できることに対する満足の感情である。法王は「心を訓練する八つの教え」から第2偈を引用された。
- 誰と一緒にいる時でも
- 自分を誰よりも劣った者とみなし
- 他者を最もすぐれた者として
- 心の底から大切に慈しむことができますように
第3日目の最後を締めくくる法王のコメントは、シャマル・パンディッタの『シャマルの菩提道次第論』より、「一般的には、自分が作らなかった業(カルマ)に出会うことはない」という教えに関するものだった。家族の一員が死んだ時、残された家族が死者のために善行を積めば、血縁の絆により死者にその利益が生じる、と法王は述べられ、同様に、師と弟子の絆により、そのどちらかが善行を積めば、他方がその利益を得る、とも述べられた。
ラムリムの法話は明日も引き続き行なわれる。