インド、カルナータカ州 フンスール
この日、ダライ・ラマ法王の一日はさらに早くから始まった。ご自身の宿舎から早朝6時にギュメ僧院内部に降りられて、砂マンダラの前に僧侶や高僧たちとともに着座され、秘密集会(グヒヤサマージャ)の灌頂に必要とされる準備の儀式を始められた。ギュメ僧院の僧侶たちは力強く儀軌次第を読誦し、静かに瞑想を行なった。準備の儀式は9時半に終了した。
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ダライ・ラマ法王による法話の始めにマンダラ供養のための読誦を先導する経頭の僧侶たち。2015年12月11日、インド、カルナータカ州フンスール、ギュメ密教大学(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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法王が小休憩を取られて法座に戻られると、僧侶たちが一斉にジェツン・シェーラプ・センゲへの礼讃偈を唱えた。砂マンダラが置かれた後ろの壁には、ジェツン・シェーラプ・センゲが4人の弟子に囲まれたお姿を描いた巨大な仏画が掛けられている。開会の準備が整い、法王が説法を始められた。
「『秘密総合タントラ』のひとつの偈には、『タントラの修行をしたいと願う者は、仏門に入った者でなければならない』と言われており、密教修行者は僧伽(サンガ)の一員でなければなりません。しかし、どういった人を僧伽と呼ぶのかには様々な見方があり、アバヤーカラグプタは、僧伽とは、僧侶や尼僧の他、戒律を授かった在家信者も含むと記しています。出家者の戒律には具足戒と沙弥戒があり、在家信者も戒律を授かるとよいでしょう。在家信者には、五つの戒律のうち、一つ、そのうちのいくつか、あるいは五つすべての戒律を授かっている人たちがいます。アティーシャの弟子ギャルワ・ドムトンパは、これに加えて禁欲の戒律も授かっていましたが、みなさんもこれが出来れば素晴らしいです。“戒律を授かった在家信者”に相当するチベット語の最初の部分は、苦しみの止滅に導く徳あるよき行ないを意味します。すなわち、悪い行ないを慎むことが解脱への道なのです。それはなすべきよき行ないですが、強制ではありません」
「先日、ヒンズー教の祭典クンブメーラに出席するため、ナーシクを訪れました。その際に、ヒンズー教のスワミである知人に会いました。ナーガールジュナの『根本中論偈』に詳しい学者のような人です。その人がヒンズー教の戒律と、彼のアシュラムに入った人がまず誓いを立てた後、何をするのか教えてくれました」
「今お話している戒律とは、不殺生、不偸盗、不妄語、そして大きな問題となり得る、他者のパートナーとの性行為を戒める不邪淫です。こうした戒律は、泥酔した時に犯す可能性が大きいので、飲酒も避けるべきでしょう」
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法話会で説法をされるダライ・ラマ法王。2015年12月11日、インド、カルナータカ州フンスール、ギュメ密教大学(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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「『秘密総合タントラ』には、タントラの修行者は賢者であり、大乗仏教を実践する者である必要があると書かれています。みなさんがどの戒律を授かったとしても三宝への帰依がその基本になります。仏法を実践した結果としての変化は突然起こるものではなく、忍耐強く修行を続け、仏陀を師とみなし、僧伽(サンガ)を修行の助けとなる同志とみなすことによって生じてくるのです。。戒律をいくつ選んだとしても、戒律を授かったことを明確に認識して、僧伽の一員になったのだと考えてください」
これらのアドバイスはおおむね、チベット本土から参加した、法王のお話を聞く機会に恵まれないチベット人に向けてのものだった。法王は、時間に余裕があれば、灌頂の前に、グル(上師)に帰依することが修行道の根本なので『五十頌のグルヨーガ』を読み、『二十頌の菩薩戒』(菩薩律儀二十論)、そして、根本タントラ戒と副次タントラ戒の破戒を戒める言葉を読誦するのが慣例である、と説明された。
その後法王は、アティーシャが著された『菩提道灯論』は、西チベットの王ジャンチュプ・ウーの要請で特にチベット人のために書かれたものであることを説明された。その中でアティーシャは、悟りに至る修行の道を段階的に実践したならば、続いてタントラの実践に入るべきことを記されており、これはチベット仏教の四大宗派すべての修行方法に影響を与えている。ニンマ派のロンチェンパによる『大究竟禅定安息論』、カギュ派のガンポパによる『解脱の宝飾』にもこの修行方法が記されている。サキャ派でも「道果説」の教義における三つの現われを説明するなかで、同様の思想が展開されている。
法王はまた、空についてある程度の理解がなければタントラの修行道に入ることはできないと述べられた。実際に、煩悩や正しい認識を妨げている障りを克服するためには、空の理解と菩提心が必要である。アーリヤデーヴァ(聖提婆)は『四百論』の中で、チャンドラキールティ(月称)は『入中論』と『中観明句論』の中で、タントラの修行には空と菩提心が不可欠であることに言及されており、これらのテキストは必読書である。
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ダライ・ラマ法王の法話会に集まった数千人の受者にお茶を配りに走る僧侶たち。2015年12月11日、インド、カルナータカ州フンスール、ギュメ密教大学(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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また法王は、昔は仏教哲学を学ぶ習慣がなかった尼僧たちが、仏教哲学の勉強をするようになって20年以上になり、来年には優秀な成績を修めた尼僧にはゲシェマ(女性の仏教博士号)を授与することが決まっていると述べられた。さらに、論理学や仏教哲学を学ぶ女性の在家信者が増え、女性の教授も増えることを楽しみにしていると語られた。仏教はチベット全土に普及したが、まだ大半の人がそれを学んでいないことに触れられ、チベットで学問に興味を示す在家信者が増えていると聞いて嬉しく思うと述べられた。
「私たちは仏法を正しく理解する21世紀の仏教徒とならなければなりません。そうした理解を得られたら、他者を正しく導くことができるようになるでしょう。よく学び、よく考え、それに確信を得たならば、自らが理解したことをしっかりと心になじませることが大切です。菩提心を生起するためには、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』に勝るテキストはありません。第8章と第6章から始めるといいでしょう。同様に、ナーガールジュナの『根本中論偈』の第26章には、無知であるために私たちがどのようにして輪廻転生を繰り返しているかが説かれており、第18章では、縁起を理解することでその無知を克服できるということが説かれています」
続いて法王は灌頂の儀式を始められ、昼食休憩の前に最初の段階を終えられた。
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ダライ・ラマ法王による秘密集会の灌頂の儀式において赤い目隠しをつける1万人を超える僧侶たち。2015年12月11日、インド、カルナータカ州フンスール、ギュメ密教大学(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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受者たちが昼食休憩から戻ると、法王は説法を再開された。そして、シャーンティデーヴァが、悟りに向かって無限劫にわたる修行を積まれたすべての仏陀たちが、菩提心を育むことこそ最も有益であることを見抜かれたと述べられていることを説明された。世俗的な観点から見ても、利他心がある人はより幸せに生きることができるが、現代の教育は、憎しみ、疑い、欲望を克服する方法をほとんど教えていないと述べられた。現代教育に不足しているものは、あたたかい心と利他心である。法王は受者たちに対し、一切の現象には実体がなく、本質的に空であるという理解に支えられて菩提心を維持することがいかに有益であるかをよく考えるように諭された。
法王は秘密集会の灌頂の儀式を粛々と執り行われた。儀式が終了すると、引き続き供養法要が行われること、また、チベット暦10月30日の今日はダライ・ラマ法王13世の命日であることを告げられた。
退場される前に法王は、この機会に砂マンダラを拝謁するよう受者たちに勧められた。数百人の僧侶たちが本堂の一角に置かれた砂マンダラを一目拝見しようと押し寄せて、さわやかな笑い声をあげながら次々と会場を後にした。