インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ダラムサラ
本日はチベット歴2142年正月15日の満月の日である。ダライ・ラマ法王は早朝から月に2回行なわれる戒律の修復と浄化の儀式である布薩に参加されるため、僧侶と尼僧たちが集まったツクラカンに向かわれた。布薩が終了した8時頃、法王は儀式用の黄色い傘を差しかけられながらナムギャル寺の前庭に降りて来られた。布薩後もほとんどの僧侶と尼僧たちは上階にある本堂に居残って法話を聞くため、配信動画を見ながら進行を追うことができるようになっており、前庭はチベット人と多くの国から訪れた在家の人々で埋め尽くされていた。
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大祈願祭の最終日にツクラカンで法話を行われるダライ・ラマ法王。2015年3月5日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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仏陀、マイトレーヤ(弥勒)、ナーガールジュナ(龍樹)、アティーシャ、そして相承の系譜に連なる導師たちへの帰敬偈を唱えられた後、法王は法話を始められた。
「毎年この日に行われる大祈願祭の法話会は、ツォンカパ大師によって1409年に創始されたチベットの伝統です。この大祈願祭を開催できない時期もありましたが、1959年にラサで開催した後、私たちはインドに亡命し、ある時亡命先で大祈願祭を復活させることが出来ました。この『ジャータカ物語(本生譚)』の法話は、仏陀釈迦牟尼がインドでなされた偉大な数々の行ないを私たちに思い起こさせてくれます。今日は特に、シュラーヴァスティ(舎衛城)において、釈尊が非仏教徒の六人の導師たち(外道の六師)を神変(奇跡)を起こして打ち負かした時のことに思いを馳せることができます。また、釈尊が仏陀となられる前の前世において、菩薩としてなされた数々の行ないを『ジャータカ物語』を読むことで思い起こすという伝統もあります。」
法王は『34のジャータカ物語』(本生譚の花鬘・ジャータカ・マーラー)と『法句経』(ダンマパダ)に相当するチベット語の『感興のことば』(ウダーナヴァルガ)は、ドムトンパによって創始されたカダム派の六冊の主要な典籍に数えられていることに言及された。その他には、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』と『大乗集菩薩学論』、アサンガの『瑜伽師地論・菩薩地』、マイトレーヤの『大乗荘厳経論』がカダム派の六冊の典籍に含まれている。法王は『ジャータカ物語』で語られている菩薩の行ないから実践のための着想を得るようにと私たちに提案された。
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大祈願祭の最終日、ダライ・ラマ法王の法話会に参加した数千の人々で埋め尽くされたナムギャル寺の前庭。2015年3月5日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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法王は、「仏教の教えが実践に結びつくためには、すべての有情を救済するために悟りを得たいと願う善い心の動機を培うことが必要です。そのような動機があれば、祈願文や真言を唱えることなど、私たちのするすべての行ないが仏教の実践となるのです。この21世紀においては、教育に大きな価値が置かれています。仏教徒として、私たちは好奇心を持ち、懐疑的であるべきです。聡明さを持って論理的な分析をすることが必要です。そのような基盤があれば、私たちの信仰は正しい根拠のあるものとなり、他者のために輪廻から解脱して、悟りを得たいという願いを育むことができます」とアドバイスされた。
そして法王は、釈尊が比丘たちに述べられたお言葉を引用された。「比丘たちよ、私の言葉を鵜呑みにしてはならない。金細工師が金を焼いて、切って、こすって純金かどうかを調べるように、あなた方は私の教えをよく調べ、分析しなければならない。」偉大な多くの方々が他の宗教を創始されているが、釈尊がされたように、自分の信者たちに対して、その教えをただしそれが正しいことを確かめるように促された方はいなかった、と法王は指摘された。
法王は、チベット仏教は、総じてナーランダー僧院の伝統を正統に受け継ぐものであり、山にある泉が川の源泉であるように、ナーランダー僧院の伝統はチベットの仏教の源泉であると述べられた。チベット仏教のすべての宗派は、ボン教も含めて、その源を遡ればナーランダー僧院の法統に行きつくのである。チベット人はこの伝統に名目上従っているのではなく、ナーランダー僧院の偉大な師たちの著作を学び、それに基づいて実践していることに言及された。チベットの偉大な導師たちは、仏教の各哲学学派が主張する教義についての詳しい註釈書を書き残されており、チベット人はそれらの典籍を学ぶことで仏教の哲学的な見解に精通するようになったことを説明された。
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大祈願祭の最終日にツクラカンで法話を行われるダライ・ラマ法王。2015年3月5日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁) |
さらに法王は、次のように私たちにアドバイスされた。「私たちは教えが有益であるかどうかを吟味しなければなりません。そしてもし役に立つという結論に達したなら、それを実践してください。仏法とは、私たちを苦しみから救うもの、苦しみを止滅させるものを意味しています。仏法は自分の心によりよい変容をもたらすための方法論を示しているのです。」
私たちは人間であり、考えることのできる心と能力を持っているが、動物は主に五感に頼っていて、考えることはあまりしない。しかし、今日の神経科学者たちは、人間の脳が持つ可能性についてすべてを調査し尽くすにはまだまだ程遠い状況にあることを報告している。そして考えるという能力は、私たちを害する方向に働くこともあることを法王は次のように説明された。物質的なレベルでは、望み得るすべてのものを持っているにもかかわらず、精神的には不幸なまま過ごしている人々との出会いを例に挙げられて、明らかな危険が存在しない状態にある動物たちの方が、心の平安を乱す様々な思いに巻き込まれている人間よりもはるかにリラックスして過ごしている。人間にだけ与えられたこの驚くべき可能性と能力を、ネガティブなことに使うよりも、幸せを築くためにに使うべきであると法王は提案された。
社会的な生活を営む動物として、私たちは生まれた時から、生き延びるために愛とやさしさを必要としている。私たちは互いに依存関係を持っており、常に他の生きものたちに頼って生きている。他者に対して愛とやさしさを表現し、他者を助ければ、自分自身を助けることになる。正直で善い心を維持していれば、他者との信頼関係を築くことができるのであり、信頼は真の友人をもたらしてくれる。
法王はさらに次のように述べられた。「すべての宗教は、愛、慈悲、寛容さ、自己規制という共通した教えを説いています。私には、他者を助けることに生涯を捧げ、それによって自らの心が満たされて生きている多くのキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒の友人たちがいます。それぞれの宗教によって哲学的見解は異なりますが、そこには共通する教えがたくさんあるのです。私たちはみな無限の愛を具現する神によって創られた存在であるため、私たちも他者を愛すべきであり、神こそそのよきお手本である、という有神論者たちの考えを私は称讃しています。他方で、釈尊は、私たちの身に起きてくるすべてのことは、私たち自身がなした行為に依存して生じている、と言われました。もし他者を助ければ、私たちは幸せになり、他者を害せば自分が苦しむことになるのです。」
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大祈願祭の最終日、ダライ・ラマ法王の法話に聴き入るチベット人僧侶たち。2015年3月5日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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次に法王は、「四つの聖なる真理」(四聖諦)が持つ十六の特徴と「縁起の十二支」について説明された。仏教徒の哲学的見解は、要約すると縁起であり、その見解に基づいて仏教徒がなすべき行ないは非暴力、つまり他者に害を与えないことであると言われ、これを理解するためには学ぶ必要がある、と結論づけられた。
大祈願祭の一環として行なわれる『ジャータカ物語』(本生譚』の法話会は、昨日第三十話まで終わっていた。法王は、凶悪な存在を打ち負かす勇敢な王子についての第三十一話、「スタソマ(月のような愛らしさ)という名の菩薩の話」の冒頭部分を読まれた。この物語は、王子の父である国王が、王国を支配するために必要な明晰さ、謙虚さ、他者への慈悲を王子が持っていることを認めて、王子に国を継がせることを決意するという結末で終わっている。
最後に法王は、いつも読まれる「菩提心生起」の偈を参加者とともに唱える短い儀式に入られ、三宝に対する帰依と菩提心生起の偈を読まれた。
仏陀、仏法、僧伽に
悟りに至るまで私は帰依いたします
私が積んだ布施行などの資糧によって
有情を利益するために仏陀となることができますように
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大祈願祭の最終日に法話会が終了し、宮殿に戻られる際群衆に手を振られるダライ・ラマ法王。2015年3月5日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ダラムサラ(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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「生き延びるために食べ物と飲み物に依存するのと同じように、仏陀になるためには菩提心を育む必要があります。この偈を毎日唱えるならば、あなた方の修行は効果的なものとなるでしょう。」
「チベット本土から来た方々、そこに坐っている中国の仏教徒の方々は、仏陀釈迦牟尼、聖観自在菩薩、ターラー菩薩、パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)の真言とグル・リンポチェへの七句の祈願文、二十一尊ターラー礼讃偈、釈迦牟尼仏陀への礼讃であるツォンカパ大師の『縁起讃』を唱えるとよいでしょう。」
最後に結びとして廻向の偈を唱えられ、法話会は無事終了して、法王は宮殿に戻っていかれた。