東京
本日、1200人の聴衆がダライ・ラマ法王の法話を聴くために東京に集った。大半は日本人だが、韓国人、モンゴル人、中国人も参加した。中国人には台湾から来た人も中国本土から来た人もいた。まず法王は、はじめに詠唱されるパーリ語の読経、日本語の『般若心経』に続いて、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』の帰敬偈、そしてマイトレーヤ(弥勒)の『現観荘厳論』の開経偈を唱えられた。
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東京で終日法話をされるダライ・ラマ法王。2014年月17日、東京(撮影:チベットハウス・ジャパン)
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「私たちは今、仏教が長年にわたり栄えてきた日本にいます。日本では般若経の教えが広く普及しており、『般若心経』が至るところで唱えられます。仏教の法話にはいくつかの説き方があります。教えを説く者が偈に沿って説明しながら伝授するやりかたや、説明なしでテキストを読んで聞かせるという伝授方法もあります。また、毎日説明を行ない、学ぶ者が聞いたことについてじっくり考えてから次の教えを授かる、というスタイルもありますし、学ぶ者が理解できるまで聞いたことを学習し、分からなかったことはさらなる説明を求めて、理解を得てから次の段階に進むという方法もあります。今回は、私は『般若心経』を読みつつ、各要点について説明した後、ナーガールジュナ(龍樹)の『法界讃』を解説を加えながら読み、最後にトクメ・サンポの『三十七の菩提の実践』を読んでその説明を行ないたいと思います」と法王は述べられた。
まず法王は、世界の主だった宗教から見た仏教の位置づけを確認された。法王によれば、哲学的背景がある宗教とない宗教がある。また創造主としての神を信じるものと信じないものがある。創造主としての神を信じない宗教であるジャイナ教がインドで2600年前に発祥し、仏教はその30〜40年後に登場した。ジャイナ教とインド六派哲学のひとつであるサーンキヤ学派の無神論派は、単なる心とからだの集合体ではない、独立して存在する自我が存在すると考えるが、この見解を仏教は否定する。仏教徒は、苦しみと幸せには原因があり、そうした原因と条件によって苦楽が生まれると考える。苦しみと幸せを体験する者を「自我」と呼ぶが、それは単なる心とからだの集合体に与えられた名前に過ぎない。
「無我」という仏教の哲学的見解について説明すると、小乗仏教の学派である説一切有部と経量部は、人に関する無我(人無我)のみを主張するが、大乗仏教の学派である唯識派と中観派は、人以外のすべての現象の無我(法無我)も受け入れ主張している。法王はこのように述べられて、インドのアムリトサルで行われた異宗教間の会議に参加された時、「自我とは何か?」、「自我に始まりはあるか?」、「自我に終わりはあるか?」というスーフィー教の指導者が掲げた3つの問いに対する答えとして、すべての宗教がそれぞれの哲学的見解を述べたことに言及された。
仏教では、自我は、五蘊という心とからだの集合体に依存して名前を与えられただけの存在である、と主張されている。創造主である神を信じる者にとっては、自我は創造主によって造られた時に始まる。しかし仏教徒は、五蘊の中で自我の土台と考えられるのは意識であり、意識の連続体の上に名前を与えたことによってのみ自我は存在していると考える、と法王は述べられた。
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ダライ・ラマ法王の法話を楽しむ1200人余りの聴衆。2014年月17日、東京(撮影:チベットハウス・ジャパン)
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生じては滅していくすべての現象は、移ろいゆく無常という本質を持つものである。そうした変化は原因と条件から生じる。一瞬前の意識が現在の意識の実質的な因となっていることを考えると、意識に始まりはなく、終わりもない。ゆえに、意識を土台とする自我にも始めと終わりがないのである。
法王は本題から外れて宗教と科学の違いについてお話になった。最近まで伝統的な科学の分野では、意識は単に脳細胞から生じると考えられていた。宗教は心を対象としているのに対し、科学は多くの場合、計測可能な物質を対象にしている。だが、科学者にも心があり、彼らも喜びや悲しみ、愛や慈悲を感じている。他方で、宗教の実践者にも食物、衣服、雨露を防ぐ家などの物質が必要である。20世紀の終わりから21世紀にかけて、脳神経科学者たちは心が脳に影響を及ぼし、心を訓練することが脳にも影響を及ぼしうるということを認め始めた。科学と仏教科学は接近しつつある。
法王は、釈尊も最初は我々と同じようなごく普通の人間であったが、心を訓練するという長年にわたる修行によって悟りを開かれたことを述べられた。我々も同じように修行をすれば、心を変えることができるのであり、そのために使われる道具は、やはり心それ自体なのである。
「このように私は聞いた。ある時、世尊は王舎城(ラージギール)と霊鷲山において、比丘の偉大な集まりと菩薩の偉大な集まりとともに座っておられた」と『般若心経』は始まる。法王は、比丘の偉大な集まりとは、阿羅漢を意味することもあるが、聖者の域に達した僧伽のことであると説明された。『般若心経』は、「その時世尊(仏陀)は、“深遠なる現われ”という多くの現象についての三昧にお入りになったのである」と続くが、この「深遠なる現れ」というお言葉について、「深遠なる」とは究極のありようを示す「空」のことであり、「現われ」とは縁起によって現れる世俗的なものの現われのことであると説明された。これと同様に、五蘊にも独立した実体はないことがその続きに述べられている。あらゆる悪い感情の源には無知が存在するため、一番最初の段階から無我の教えが説かれるべきである、と法王は述べられた。
そして自らのご体験について、法王は次のように述べられた。
「私には語るべき特別な体験などありませんが、空に関心を持ち始めたのは15歳か16歳の時で、その頃はたいした理解もありませんでした。30歳くらいのとき、自我は五蘊と同じではなく、だからといって五蘊と全く無関係でもないということについて常に考えるようになり、自我とは、ただ名前のみの存在なのだと考えると、強い「無我」の感覚を得ることができました。しかし、これと同じ論理を五蘊に応用してみましたが、同様の体験は得られませんでした。ナーガールジュナによる中観の見解に基づいて「独立自存の実体のある存在」を否定しなければ、五蘊などの他の現象の無我を理解することはできません。ナーガールジュナが説く空と縁起について、偉大な学者だから難しいことを言われているだけで、単に知的な遊戯であり、現実に応用するのは難しいと言う人もいますが、それが事実でないことは非常に明らかです。」
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東京での法話でお話しをされるダライ・ラマ法王。2014年月17日、東京(撮影:チベットハウス・ジャパン)
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「すべての現象はそれ自体の力で独立して存在しているのではありません。ですが、それは何もないという意味ではありません。すべての現象は確かに存在していますが、他の因と条件に依存して存在しているのです。物質的存在は空であり(色即是空)、実体がありません。しかし、私たちに見えているすべての現象は、空という本質には見えません。これは量子物理学のアプローチととてもよく似ています。モノを粉々に壊して実体を探しても、独立して存在すると言えるような実体は何も見つからないのです。」
「私の目の前にあるこの花について考えてみましょう。この花の形と色を微粒子のレベルにまで分解して見ても、花の形や色を見出すことはできず、花の実体も見つけることはできません。ゆえに「色即是空」といわれているのです。ないのではなく、花の各部分の集まりに依存して、自分の心が「花」という呼び名を与えているだけなのです。だからといってここに花があることを否定する人は誰もいません。花は、様々な因と条件の集まりに依存して存在しているだけなのです。」
さらに法王は、『般若心経』の最後の真言が、心の汚れを滅し、悟りに向かって心が高められていく五つの修行の道の段階を示していることを説明された。「ガテー、ガテー」という最初の二つの真言は、資糧道と加行道に順次至るべきこと、、そして次の「パーラガテー」は、空を直観で初めて見た時に入る見道に至るべきことが示されている。さらに、「パーラサムガテー」は、空の直接体験を瞑想によって心になじませていく段階である修道を示しており、「ボーディスヴァーハー」では、悟りという目的の達成が示されている。
その後、法王は『法界讃』と『三十七の菩提の実践』を急ぎ足で読まれ、随所で要点を説明された。終わりに法王は次のように述べられた。
「テキストは小冊子に印刷されており、私はそれに簡単な解説を加えました。次は皆さんがそれを何度も読み返し、書かれている内容について考える番です。どうか皆さんテキストを勉強して下さい。来年、戻ってきたらテストをします。小冊子が勉強で汚れたかどうかも確かめたいと思います(笑)。
私は二週間の日本滞在を、仙台で、被災者の方々のための神道による祈祷でスタートしました。いろいろなところで日本の友人たちと会いました。皆さんも今日ここへ来てよかったと思ってくださればよいと願っています。そしてこれからは、自分の心を使って私が説いた教えの内容をよく考えて下さい。あるチベットのラマに、『たとえ明日死ぬとわかっていても勉強するべきである、それは来世への投資のようなものだから』と言った人がいます。」
最後に高野山大学の藤田光寛学長が感謝の言葉を述べ、会場には温かい拍手が続いた。笑みを浮かべた人々が押しかけ、法王の手に触ろうと手を伸ばす中を、ダライ・ラマ法王はゆっくりとホールから退場された。
法王は明日、インドに帰国される予定である。