仙台
ダライ・ラマ法王は日本ご滞在7日目、薄曇りの仙台を発たれて、車で石巻に向かわれた。仙台と石巻は約50km離れており、約1時間の旅となった。石巻は3月11日の津波によって最も甚大な被害を受けた地域である。車が進むにつれ、その光景は言いようのない悲しい空気に包まれていた。家々の一階は津波によって粉々に破壊され、二階だけがそのまま残り、まるでソケットのようにたたずんでいた。電柱は45度の角度に倒れたままで、水に浮んだままの車も見られた。法王を乗せた車は、押し潰されたガソリンスタンド、大きな穴があいた家々、ひっくり返った巨大な船が浮かぶ海の前を通り過ぎていった。明らかにかつては活気があったであろう場所が今はゴーストタウンとなり、家々は崩れて折り重なり、車は金属の山となって積み上げられていた。
たった1日で、この場所でおよそ1万2千人が亡くなった。そして遺体が発見されたのは、その内の4千人にすぎない。
被災地の中心部は一面瓦礫の山となっていた。墓地では墓石が倒れて砕け散っていた。骨組みだけになった家々の表には洗濯物が干されたままで、えぐられた壁の向こうの居間に椅子がひとつ残されているのが見えた。法王は車を降りられ、法王を出迎えるためにと沿道に集まっていた人々の方へと歩まれた。
「どんなお気持ちですか?」と、法王はその力強い手を差し出され、「まだ悲しんでおられますか?」と訊ねられた。女性たちが、「ありがとうございます。ありがとうございます」と泣き崩れ、むせび泣いた。胸が詰まるような光景の中で、法王は次のように述べられた。「あなた方は、この場所でいくつもの悲しみに襲われました。しかしそれはもう、すべて終わったことです。起きてしまった事は変えられません。ですから、どうぞあなた方の心を転換させて、強く生きてください。他の人の力となって、皆がもっと元気になれるよう助けてください」
法王の話に、群衆は黙ってうなずいた。「あまりにも多くの方々が亡くなりました」と法王は語られた。「どんなに悩んでも、亡くなった方を助けることにはなりません。一所懸命に生きてください。それが、亡くなった方達に対してできる最高の供養です。私はここに来てあなた方に会えて、本当によかったと思っています」
法王は背を向けて眼鏡をはずされ、涙を拭われた。
そして法王は、長い列をなす黒い法衣姿の僧侶たちが読経をする中を、ゆっくりと西光寺に向かって静かに歩いていかれた。周囲はどこも残骸で埋め尽くされ、さらに多くの墓石が割れ、傾いていた。青い制服を着た園児の一団が法王に挨拶をした。彼らは災害のあった日に幼稚園にいたために助かった子供たちだった。周囲の木々は倒れて株だけとなり、赤い前掛けを付けた小さなお地蔵様が並び、生者と死者を見守っていた。
法王は、西光寺の本堂の前に並べられた沢山の椅子に腰かけた人々の長い列の間を進まれて本堂に入られ、ご本尊の前で三拝された。そして、満席の参列者が日本語で般若心経を唱えると、法王もこれに続いて、数名のチベット人僧侶とともにチベット語でお経を唱えられた。
法王は、話のはじめに、ここにいる人々の苦しみをどのように共有できるかということについて語られた。そして、大切な友人や親族を失った人々に向けて、「世界中の、多くの人々があなた方の状況を知るやいなや、『あなた方は一人ではない、私たちがついている』と思ったことを忘れないでください」と述べられた。
「私はこの悲しい知らせをBBCのニュースで聞き、鋭い痛みを感じました。そして1967年から度々訪れていた日本での出来事を思い返しました」法王の横にある祭壇の脇には、50以上の箱が整然と並んでいた。その中には遺骨が納められており、ペットボトルのお茶や思い出の形見の品と共に、若者からお年寄りまで、様々な年齢の人々の写真が立てかけられていた。「ここに来る途中、私は運転手の方に、津波はここまで押し寄せてきたのですか、と尋ねました。そして私は、すべてが突然に、全く変わってしまったのだということに気づきました。心が張り裂けそうになりました。ここの人々と握手を交わして、涙がこぼれました。
しかしこれは、すでに起きてしまったことです。私たちは人間であり、考えることができます。このようなことが起きた時には考えなければなりません。よく考え、自分を信じることで、私たちはこのような問題をすべて乗り越えることができるのです。悲劇は当然ながら悲しみをもたらし、私たちを混乱させます。しかし今は、その苦しみを糧に自分を信じ、励みとして、再び生活を立て直し、国を再建していかなければなりません。特に、ここにいる幼い子供たちには教育を授け、次の幸せな時代を率いてもらわねばなりません」
続いて法王は、本堂内にいる数百人の人々、境内で座っている数百人の人々、後方で立っている人々、そしてスクリーンを通して法王を見つめている多くの人々に向けて、1959年に多くの友人と小さな一匹の犬をチベットの首都ラサに残して亡命されたこと、そしてその二日後にその多くが亡くなった知らせを受けたことについて、次のように語られた。「当然ながら私は、深く悲しみました。しかし先ほど申し上げたように、私には考えるという力があり、信念もありました。それによって私は、悲劇を内なる心の強さの源へと変えることができたのです。それから52年が経ちましたが、私はずっとその決意を励みとしています」
また法王は、日本人が戦後の灰の中で国を再建するためにいかに懸命に励んだかにふれて、「日本の皆さんは、非常にすぐれた協調性と助け合いの精神を持っていると思います」と述べられた。
それから法王は、本堂の外に向かって歩まれると、境内に座っている人々に次のように話しかけられた。「仏教の信徒であるかないか、そんなことは問題ではありません。必要なのは、現実的であることです。8世紀のことですが、ある偉大な仏教の師もまた、『悲劇が起きてしまったときは、悲劇の全体像を見なさい。そのように見るならば、悲劇は克服できるものである』と述べておられます。ですから、心配することはありません。一所懸命励んで、解決策を探してください。もし、解決策がないのであれば、心配してもしょうがないのですから」
「創造神としての神を信心する宗教では、説明のつかない出来事もすべて神様がお造りになられたことであり、それには何らかの意味があるのだと考えます。そして、仏教のように創造主としての神の存在を受け入れない宗教では、すべてのことは原因と条件に依存して起きてくるという因果の法を信じています。その業(カルマ)は今生のものである場合もあれば、前世からのものである場合もあります。仏教徒の観点から、私たちは善きカルマを積まねばなりません。今世の善きカルマは、前世の負のカルマよりも強力です。今世で善きカルマを積むことで、前世の負のカルマを減らし、ときには消し去ることもできるのです。
ですから、前を向いてください。強い決意をもって新たな人生を切り開いていってください。正直に、誠実に、人生を歩んでください。誠実で思いやりのある行ないをすることが、善きカルマを増やすということなのです」
「今は、心配したり、悲しんだりしている時ではありません。強い決意と、日本人独自の協調性と助け合いの精神をもって町を復興させねばなりません。これは日本人の強い意志と能力を世界に向けて示す良いチャンスでもあります。新しい幸せな町を再建したら、ぜひ私に招待状を送って下さい。私はまた皆さんに会いに来ます。その時は一緒に大きなお祝いをしましょう」
聴衆は皆、明らかに心を動かされていた。そして五人の子供たちが代わる代わる法王に花を贈呈すると、法王は、一緒に写真を撮りましょう、と子供たちにポーズを促され、一人の内気な男の子に「笑って、笑って」と言いながら、その頬をくすぐられた。法王が寺を出られ、ゆっくりと来た道を戻られるとき、来たときとは違う光の中に様々な光景を見ることができた。年配の人たちが法王に手を伸ばすと、法王はその手を長い間握り締めて、亡くなった家族の写真の額を抱えた女性たちを慰め、励まされた。
午後、法王は、仙台市の中心部にある興正寺で、仏教徒としていかに苦しみを克服していくべきかについて講演を行なわれた。聴衆の数は非常に多かったが、その多くが僧衣やスーツ姿であった。法王は、次のように説かれた。「何らかの悲劇が起きたときには、それを注意深く見つめなければなりません。そして、起きてしまったことは変えられないとしても、心の持ちようを前向きに転換していく必要があります。私は今日、多くの被災された方々にお会いしました。彼らの痛みはおそらく最初は外的な痛みであったと思いますが、今は目には見えない内的な痛みとなっています。外的な痛みなら、薬を飲むことも医師に診てもらうこともできます。しかし内面の痛みは、あなた自身が対処し、心を鍛えることで改善していかねばなりません」
「例えば、失ったもののことだけを考えていると、苦しみは増していきます。しかし家を失っても、新しいきれいな家を建てることに専念すれば、苦しみを励みの糧へと転換することができます。『なぜ私がこんな目にあわなければならないのか?』と考えるならば、これもまた苦しみを増やしてしまいます。このような思考はある種の妄想です。より広い視点で物事を見ることで、痛みを小さくすることができるのです」
法王は今朝、すすり泣く大勢の人々の前で心を込めて話され、そのお心が多くの人々の心に届くこととなった。そして午後、法王は、どのように苦しみを将来の可能性に転換していけるのかを、現実的な方法として、分析と考察を重視する仏教の教えに基づいて語られた。今日の法王は、まるで医師のように思われた。まず思いやりを持って接し、それから診断し、診断に基づいて治療を行なう、という実践を示された一日だったからだ。そして、このような癒しの力は、私たち一人ひとりの内なる心にもあり、それは、他者を思いやる心に宿るものである、ということを法王は私たちに教えてくださったのである。