仙台
ダライ・ラマ法王は、真言宗総本山である色鮮やかな紅葉に染まった静かな高野山で4日間を過ごされたあと、大阪に立ち寄られ、飛行機で仙台へ向かわれた。仙台空港では仙台市仏教協会の代表者らが拍手で法王を出迎えながら、法王のご到着を歓迎した。
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仙台に向けて出発する前に高野山で人々に挨拶されるダライ・ラマ法王。2011年11月4日、高野山(撮影:チベットハウス・ジャパン)
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「3月に起こった東日本大震災の被災地域で起きた地震と津波、そして原発による深刻で危険な状況について聞いたとき、私は非常に深い悲みで心がいっぱいになりました。」 3月11日に発生した大地震の震源地に近い仙台市に到着されたダライ・ラマ法王は、まずそう述べられると、次のように続けられた。「これほどの激しい苦しみ、これをコントロールすることなど私たちにはできません。仏教徒として、仏教国日本で起こったこの痛ましい被災を非常に悲しく思いました。それに、私は日本を何度も訪問しているので、日本には多くの友人がいます。ですから、私も皆さんの苦しみをともに分かちあうために、是非被災地を訪問したいと思ったのです。」
震災後の4月末、法王はアメリカへ向かわれる途中、東京でのトランジット滞在を数日間例外的に延長された。その最後に、記者会見に集まった30人ほどの報道関係者に向かって、法王は次のように述べられている。
「今回私は、東京の護国寺で震災により亡くなった方々のために祈り、その家族の方々に私の哀悼の意を表明する機会をいただきました。その時、被災地から来た方にお目にかかり、機会さえあればすぐにでも、被災地を訪問させていただきたいと彼に約束したのです。」
このような経緯により、法王は今回の日本ご滞在の6日目を、今年の3月に甚大な被害を受けた仙台と福島県地域で過ごされたのである。
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仙台到着後に報道関係者と会談されるダライ・ラマ法王。
2011年11月4日、仙台(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁) |
法王が仙台市内から石巻市まで車で移動されたとき、車窓からは荒廃した土地が広がっているのが見られた。津波により全域が倒壊し、金属スクラップが高く四
角形に詰まれており、道路の両側に沿って収集されていた。トラクターが津波による廃棄物を片付けていた。町の中心部にある高層ビルにも、地震による亀裂が
見られた。そして、地震と津波が襲ってからわずか数ヶ月後、ようやく復興し始めたばかりの仙台を台風が襲い、さらなる破壊を引き起こした。日本の「極北」
ともいわれるこの辺鄙で農村を主体とした東北地方が、今回の法王の最初の旅となった。ダライ・ラマ法王は、仙台訪問の理由について報道陣に少し説明する
と、「残りの思いは明日の講演と祈祷会にとっておきたい」と述べられた。
「悲劇はすでに起こってしまいました。今は、いつまでも深い悲しみの中にとどまっているのではなく、その悲しみを熱意に変えて、あなたがたの町を再建するための強さを持たなければなりません。」仙台におけるご講演の中で、法王は被災者たちに向かってこのように語られた。
その後、報道関係者たちは、最近起こっているチベットでの焼身自殺について、将来のダライ・ラマ法王の転生について、そして地震が仏教的に何を意味するの
かについて法王に質問をした。法王は因果の法則について簡潔に説明されると、3月に選挙によって選ばれた政治的指導者に、法王の政治的な責任を完全に譲渡
したことに言及され、今後、政治的な質問には政治的指導者であるロブサン・センゲ首席大臣(シキョン)が対応することになる、と述べられた。
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仙台で開催された記者会見後に報道関係者に手を振られる
ダライ・ラマ法王。2011年11月4日、仙台(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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法王ご自身の将来の転生については、「私が85歳から87歳くらいになったときに最終的な決定をします。急ぐことはありません。私はチベットだけではな
く、チベットの伝統を受継ぐ全ての仏教国、つまり、モンゴルやヒマラヤ山麓全体のチベット仏教の指導者たちと十分に協議を重ねたいと思います。その合意に
より最終的な決断に至ることができるでしょう」と述べられた。
仙台の人々と何を本当に「共有」できたか、という問いに対して、法王は次のように締めくくられた。「私には被災地の方々の悲しみを取り除くことはできません。しかし、単に被災者の方々の中に溶け込んで、私自身の深い感情を皆さんと交換することはできます。あなたが困難に直面しているとき、あなたのお友達が尋ねてきてくれて、慰めの言葉をかけてくれる。このような共有はとても大きな意味を持つのです。」