福島県 郡山市
東日本大震災の被災地訪問の一環として、ダライ・ラマ法王は福島県郡山市を訪問され、地震後の原発事故により放射能の脅威に晒されている被災者たちに、「困難を乗り越える力」について語られた。
事故が起きた福島第一原発から約100キロ離れたところにある郡山市の日本大学の講堂に集まった数千人の満場の聴衆を前に、法王は、悲劇的な状況のなかでも、平穏な精神を保ち、自分を信じる心を持って現実的な対応をすることが、精神的なレベルで問題に取り組むための鍵となる、と述べられた。
「免疫機能が正しく機能していれば、あなたの健康は維持されるでしょう。でも、心がかき乱されていたら、どんな小さな問題にも耐えることができなくなってしまいます」と、法王は言われた。
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郡山の日本大学で講演をされるダライ・ラマ法王。2011年11月6日、郡山市(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
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一人の聴衆が法王に向かって、「他者を気遣い、尊重していても、物理的な問題が絶えず起きてくる理由は何なのでしょうか」という質問をした。「他者がどのように反応しようとも、その人を助けたいと思う正しい動機をもたなければなりません。そうでなければ、それは純粋な慈悲ではありません。純粋な慈悲の心は偏りのないものです。慈悲を真摯に実践しようとすれば、敵からよい反応が返ってくることを期待してはいけません」と法王は答えられた。
もう一人の質問者は、福島を捨てて安全な場所に行くべきか、しかしそうすれば共同体への帰属を失ってしまうのではないか、というジレンマについて質問した。法王は、それは安全性の問題だと答えられた。その質問に一番良い回答を与えられるのは科学者であり、もし科学者が、福島に住み続けるのは危険だと言うのなら、あなたは福島を去らなければならないだろう、と言われた。
困難な状況で平和な心を築いていくにはどうしたらよいか、という質問に対し、法王は、知性を活用し、現実を直視することで心の平和が得られる、と答えられた。心が平和になれば、勇気と決断力という内面の力が増し、物事を前向きにバランス良くとらえられるようになる、と語られた。
ある教師が、この地域では放射能の脅威が広がっていて、幸福感が得られない、と訴えると、法王は次のように言われた。「そうしたケースでは、私はいつも悲しみを分かち合います。私たちには人間の知性が備わっているので、同じ人間社会に属する社会的な生きものとして、苦しみの中にいる人々を助けることができるのです。あなたは一人ではない、全人類があなたに味方してくれている、といつも考えるようにしてください。不幸は、恐怖と無力感から生まれるからです。」
別の人が、法王はこの世は良い方向に向かって進んでいるとおっしゃいましたが、そのお考えに変わりはないか、と質問した。法王は答えられた。「過去に起きた様々な出来事を振り返ってみれば、より楽観的になるべき理由は沢山あります。昨日、私は津波被害の大きさを目撃しました。でも、それはこの世の終りではありません。地球環境の変化によって、今後、自然災害は増えるかもしれません。でも、それが世界を完全に破壊し尽くすことはないでしょう。世界はまた数千年は続くでしょう。それでも、人々は不満を言い続けます。70億人近い人類の一人一人に、不平をこぼす口実が必ず何かあるのです。ですから、心配しないで、楽観的になりましょう。」心強い法王のお言葉を、聴衆は大喝采で受け取った。
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郡山の日本大学のご講演で質問を受けられるダライ・ラマ法王。2011年11月6日、郡山市(撮影:チベットハウス・ジャパン)
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講演の冒頭に、法王はこの世の主だった問題は、完全な現実認識の能力を持たない人間が人為的に作り出したものである、と言われた。「現実を認識せず、問題を一方向からだけ捉えようとすれば、問題に対処するアプローチは非現実的なものになってしまいます。問題に対処するには、それを全体的な観点から見直す必要があります。」
法王は、人間が作り出した問題は、道徳倫理の欠如から生まれたものである、とも言われた。「現代の教育は物質志向が強いようです。全体的で、世俗的な倫理観に基づく教育を広めることが、道徳倫理を発展させる鍵となり、個人、家族、社会、地球のレベルで幸福と平和に到達するための最も大切な要素となるのです。」
法王は、道徳倫理は普遍的であり、自分自身と他者の両方に幸福と平和をもたらすと説明された。「宗教を信じている人にも、信じていないに人も、親切、愛と慈悲、寛容などのよい心は普遍的です。宗教は普遍的にはなり得ませんが、世界のあらゆる宗教は、正しい価値観について同じメッセージを送っています。個人、家族、社会、そして地球のレベルで道徳的な原則を発展させていけば、平和と安全が得られるでしょう。ですから、宗教的な方法ではなく、普遍的なやり方で、教育のなかで道徳倫理を広めていく必要があります。道徳倫理を教えるという点では、現代の教育システムは十分ではありません。」
「世界のトップレベルの科学者たちや、ウィスコンシン大学、スタンフォード大学、エモリー大学といったアメリカの大学は、内面の良い感情が、人間の行動と人生の生き方に与える影響について特殊な研究を行っています。怒りと憎しみといった破壊的な感情は、私たちの免疫システムに有害なものですが、他方で、親切、愛と慈悲、寛容を愛する心などの良い感情は、健康維持に非常に有用だということが実証されています。これらの大学では、こうした普遍的な倫理観を、宗教的なアプローチとは異なった方法で現代教育に導入するにはどうしたらよいか、という研究をしています。」法王はこのように語られた。
さらに、「皆さんの大学も、普遍的な倫理観についての研究をパイロット・プロジェクトとして、さまざまな報告書を発表し議論を深めていくべきです」と、法王は日本大学の学長に向かってこのように言われた。法王はまた、金銭が内面の平和をもたらすことはなく、不安や心配やストレスをもたらして、時として家庭や社会を分断に導いてしまう、と強調された。「物質的発展だけで問題を解決できると思うのは大きな間違いです。幸せな生活の源は物質的に発展していくことではなく、心の内面にあるのです」。
さらに法王は、内面的な価値を広めていく方法について詳細に語られた。「私たちは生まれたときから普遍的な倫理を知っています。お母さんが子供を大切に育て、お母さんと子供の肉体的な接触は、子供の脳の発達にとって欠かせない重要な要素です。お母さんから最大限の愛情を受け、大切に育てられた子供の心は、そうでなかった子供よりずっと幸せです。しかし、こうした愛情を得られなかった子供の心は不幸です。私自身の体験から言えば、私の母は文盲でしたが、他の人たちや子供たちに対してとても温かい心を持った人でした。母が怒った顔は見たことがなく、母が平穏な心と慈悲を離れたことはありませんでした。ですから、子供を持つお父さんとお母さんは、最大限の愛情を注いで子供の世話をすることが大切です。経済的に貧乏でも、愛やお互いへの気遣い、信頼のある家族は幸せなのです。」
そのあと法王は郡山市を離れて、東京に向かわれた。そして法王は、慰霊供養、講演会、東日本大震災の被災者との会合などを目的とした10日間の日本ご訪問の旅を全て終了されたのである。