この数十年間、ダライ・ラマ法王は、「思いやりこそが宗教であり、人々が “自分は地球というより大きな共同体の一員である” と考えるならば、意見の違いを乗り越えることができる」と語ってきた。また法王は、「仏教の導師たちの教えと同様に、マハトマ・ガンジーの言葉に導かれてきた」とも述べている。1989年にオスロでノーベル平和賞が授与された際にも、「この受賞は変革のための非暴力闘争という現代の伝統を築き上げ、その人生によって私を教え導いてきたマハトマ・ガンジーの教えの価値を証するものである」と述べている。ガンジーの生誕150周年を記念して、今日まで続いてきたガンジーの教えの意義と、非暴力と思いやりの思想についてダライ・ラマ法王に語っていただいた。
法王は、マハトマ・ガンジーのどのようなところに勇気づけられておられるのでしょうか?
マハトマ・ガンジーは、アヒンサーという非暴力の思想によって、20世紀の人々に最も大きな影響を与えた方です。アヒンサー(非暴力)とその動機であるカルーナ(慈悲)は3千年前にインドで生まれた伝統ですが、ガンジーはこうした伝統を現実の問題に直結した生きた教えにされたのです。インドの自由のために非暴力で闘うことを通して現実的な教えにされたのですから、すばらしいことだと思います。
当時の人々のなかには、ガンジーの非暴力は弱さの表れであると思った人たちもいたかもしれませんが、困難な状況下で非暴力を貫くことは「強さ」であり、弱さではありません。私が知るかぎり、マハトマ・ガンジーの方法を完全に踏襲したのはネルソン・マンデラとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアでした。
個人的には、私たちは幼い頃から「インドのマハトマ・ガンジー」の話をたびたび耳にしてきました。一度は私も夢のなかでマハトマ・ガンジーに会ったことがあります(クスクス笑って)。言葉を交わしたわけではありませんが、ただガンジーの顔が夢に現れたのです。私はチベットにいた頃、冬はポタラ宮で、夏には離宮のノルブリンカで過ごしており、夢にガンジーが現れたのは、冬にポタラ宮にいたときでした。写真のなかのガンジーではなく、本物のガンジーでした(笑)。
ガンジーの思想と非暴力は、どのように今日の問題に関連しているのでしょうか?
単純なことです。今日、多くの科学者たちが、人間が本質的に思いやり深いのは、社会生活を営んで生きる類の生き物だからであると述べています。「共同体」とは、古代においては自分の家族や自分が住んでいる村を意味していましたが、現代社会においては世界全体を意味しています。世界全体が人類という同じひとつの共同体なのです。そのように考えるならば、非暴力はきわめて重要です。個人としては、私たちの未来や繁栄も、すべて同じひとつの共同体に依存しているのですから。
仏法はインドからチベットにもたらされたことから、われわれチベット人にとってインドの人々は聖なる隣人です。私はいつも、「何千年にもわたり、インドの人々は私たちチベット人のグル(師)であり、チベット人は信頼に値するチェラ(弟子)であった」と喜びを込めて述べています。師の国インドにおいてナーランダーの伝統はさまざまな浮き沈みを経験してきましたが、その浮き沈みのなかで、われわれチベット人は信頼に値する弟子としてナーランダー僧院の伝統を維持し、守ってきました。
以前はこのように、インドの人々は師で、われわれチベット人は弟子でしたが、現在は違います(笑)。インドの人々はナーランダー僧院の伝統を忘れてしまいましたが、チベット人は生きた教えとして維持し、守り続けています。われわれ亡命者は、ここインドにおいて自分たちで運営する共同体を持つことができただけでなく、ナーランダー僧院の歴史的伝統をこの国に復興することもできました。そこで今、私が使命の一つとして取り組んでいるのが、古代インドの知識であるアヒンサー(非暴力)とその動機であるカルーナ(慈悲)を、祈りを通してではなく、心と感情を訓練することによって復活させることなのです。
マハトマ・ガンジーは強い影響力を持つグル(師)でしょうか、それとも慎み深いチェラ(弟子)でしょうか?
最初、マハトマ・ガンジーは数千年におよぶインドの伝統の弟子でした。後に、何百万人もの支持者が現れ、その支持者たちがマハトマ・ガンジーをグル(師)として尊敬するようになりました。
法王は、ガンジーが強い影響力を持っていたのは、自身のことをグル(師)ではなくチェラ(弟子)だと思っていたからだとお考えでしょうか?
まったくその通りです。間違いないでしょう。率直に言えば、私にもたくさんの支持者がいますが、私は常に自身のことを一介の僧侶であると思っています。世界の70億の人類はみな人間として精神的、情緒的、身体的に同じです。これを自覚するならば、70億の人類と自分はひとつであるという思いが湧いてきます。しかし、インドの一部のグル(師)を含め、ラマ(師僧)のなかには、自分は特別であると思っている人がいるようです(笑)。
私自身も、過剰な称賛を浴びる危険に直面することがあります。そのようなときは、仏陀の慎ましい弟子であることを忘れないよう自分に言い聞かせなければなりません。これはとても大切なことです。自分自身が破壊的感情(煩悩)の奴隷になってしまったら、どうして教えを説くことなどできるでしょうか。
法王は、「弱点」は偉大さの一部であるとお考えでしょうか?
実に哲学的な質問ですね(笑)。自分の弱点を知ることは大切なことです。弱点を知ることによって、改善することができるのですから。もし、チベット仏教やヒンドゥー教のラマ(師僧)のなかに、自身は偉大だと思っているラマがいたら、試しにそのラマを批判したり、からかったりしてみるのも大切なことです。試されてもまったく動じなければ、そのラマは人に説いている通り本当に教えを実践しているというしるしです。
今日の社会には、科学技術によって心が掻き乱されたり、不平等が生じることがよくありますが、どうすればエゴや怒りのない、旧来の伝統とシンプルな暮らしを手に入れることができるでしょうか?
現代教育は西洋で生まれ、英国からインドにもたらされました。現代教育には、瞑想を通して感情の問題に取り組む方法を知る術(すべ)がありません。現代教育は物質的に豊かになることを目的としているからです。ですから、怒りや憎しみ、恐れや嫉妬に直面したときに、どのように対処すべきかを人々は知らないのです。インドは、破壊的感情(煩悩)を減らし、建設的な感情を高めるために、分析的瞑想を通して古代インドの知識を復活させなければなりません。
私のいちばん新しい使命は、この古代インドの知識を現代のインドに蘇らせることです。インドは、現代教育や科学技術、科学といったきわめて有益な学問と、どうすれば心に平和をもたらすことができるかという古代インドの知識を結びつけることのできる唯一の国家なのです。
ガンジーは古代と現代とをつなぐ架け橋だったのでしょうか?
マハトマ・ガンジーは全身全霊で非暴力運動に尽力されましたが、心に関しては、現代教育と古代インドの知識を結びつけるということにどの程度取り組まれていたのか、私にはわかりません。ガンジーはきわめて現実的な人であり、英国で教育を受けられました。アヒンサー(非暴力)を広めることに身を捧げられましたが、カルーナ(慈悲)に関しては、私にはわかりません。
法王は、マハトマ・ガンジー生誕150年をどのように今日の社会に意義付けしておられるでしょうか?若い世代が目にするのは、インド紙幣に印刷されたガンジーだけなのですが……。
(クスクス笑って)世界中がマハトマ・ガンジーの教えと非暴力の実践を必要としています。今日の多くの問題は、われわれ人間が自ら作り出したものです。われわれは問題を見つけるとまず、これを力によってどうやってやっつけようかと考えます。しかし、それは完全に間違っています。暴力は真摯な動機付けとなる場合もあるかもしれませんが、方法として間違っているのです。暴力は互いを破壊します。人類の歴史において、武器はきわめて重要なものとなりました。しかし、それはもう時代遅れです。あまり友好的でないからという理由で、ひとつの国家が残りの国家を排除することはできません。好む好まざるにかかわらず、われわれは共に生きていかねばならないのです。それが現実です。
現代教育は、きわめて多くの目的を物質的な豊かさにおいていますが、それだけでは十分ではありません。怒りや恐れなどの感情にいかに対処すべきか ―― これは宗教的な問題ではなく、人間の心が健全であるかどうかの問題です。教育には、宗教的信仰ではなく、常識に基づいた心の平和についての教育が含まれているべきだと思います。
マハトマ・ガンジーはアヒンサー(非暴力)を説き、法王は思いやりを説かれています。お二人はどのように異なるのでしょうか、あるいはどのように似ているのでしょうか?
さて、どうでしょう。これはあなたが調べるべきことです。しかし、敢えて言うならば、私のほうは精神面に対する取り組みが多く、ガンジーのほうは行動で示す取り組みが多いと言えるかもしれません(笑)。私はナーランダー僧院の伝統に従う生徒ですので、私たち生徒は子どもの頃から論理学と心理学を学んでいるのです。
マハトマ・ガンジーはどちらかというと政治家だったのでしょうか、それとも精神的指導者だったのでしょうか?
マハトマ・ガンジーは英国から戻られた後、南アフリカで非暴力運動を始められました。それは純粋に倫理的で、精神的なものでした。その後、ガンジーはインドに戻り、非暴力の実践をされました。ガンジーはインド人ですから、インドにおいては何らかの政治的な含みもあったかもしれません。しかし南アフリカにおいては、非暴力は純粋な理論であり哲学でしたから、そこでは精神的指導者でした。
私は常に自分のことをマハトマ・ガンジーの弟子だと思っていますが、哲学の分野においては、(クスクス笑って)私の知識のほうがガンジーよりも少し多いかもしれません。私たちは子どもの頃からナーランダー僧院のテキストを通して量子物理学を学んできたからです。私は量子物理学について科学者たちと対話をするとき、彼らを心から尊敬していますが、心の問題に関しては、私のほうが詳しいと思っています(笑)。量子物理学は、目に映るものと現実の違いを明確に説明しています。怒りや極端な執着といった破壊的感情(煩悩)に対処するには、このギャップを理解する必要があります。つまり、目に見える通りに客観的に独立して存在しているものはこの世には何ひとつ存在せず、対象物はそれを見ている主体者の心に完全に依存しているのです。
ガンジーと同様に、法王も人生において大変な困難に直面されてきました。どのようにして楽観主義を維持しておられるのでしょうか?
第一に、私は自身のことを70億の人間のひとりであると思っています。私は、中国人もチベット人もインド人もヨーロッパ人も、人間であるというレベルにおいて同じだと思っています。私たちは感情面でも身体面でも精神面でも同じなのです。私の第一の使命は、このひとりの人間というレベルにおいて、70億の人々の心の平和と、宗教に基づいてではなく、完全に世俗的なレベルで思いやり、あるいはカルーナ(慈悲)の促進に努めることです。
私の第二の使命は、仏教の僧侶として異なる宗教間の調和を促進することです。私は、異なる宗教間の調和は実現可能だと確信しています。インドを見てください。2千年以上もの間、インドで生まれた伝統宗教と外国から入って来たさまざまな宗教が共存してきました。時には問題が生じることもありますが、それは主に政治的な計らいによるものであり、基本的には、ここインドには異なる宗教間の調和がきわめて深く息づいています。
私は常々、「中国人のことを敵とみなしても何のためにもならないのだから、兄弟姉妹としてつきあうほうがはるかによい」とチベット人たちに言っています。当面は隣国中国との問題がありますが、それは共産党の少数の個人との問題です。今では中国の指導者たちの多くは、70年にわたるチベット政策が非現実的であったことに気づいています。中国は武力行使にあまりにも力を入れ過ぎたのです。その結果として彼らは今、チベット問題にどう対処すべきかをめぐってジレンマに陥っています。つまり、状況は変化しているのです。1年か2年のうちに、私が中国を訪問する機会があるかもしれません。しかし、私は自由を愛していますし、インドの自由を享受しています。60年以上にわたるインドの自由が、私を甘やかしてきたのです(笑)。
世界中で起きている争いと私たちの生きかたは関連しているのでしょうか?
問題の根本的な原因は、自己中心的な態度にあります。その特効薬は、利他の心です。利他の心が高まれば高まるほど、自己中心的な態度は減っていきます。自己中心的な態度は、怒りや憎しみ、恐れを引き起こします。科学は、人間は基本的に思いやり深い性質であることを明らかにしています。私たち人間は基本的に社会生活を営んで生きていく類の生きものなのですから、他者の思いやりに感謝して、笑顔でいてください。思いやりを持って生きることです。
法王はインタビューの冒頭で、夢のなかでガンジーを見たとおっしゃいました。もし今、本当にガンジーに会えたとしたら、第一に何をお伝えになりますか?
ぜひお目にかかりたいものです。まず、敬意を込めて御足に触れさせていただくでしょう。そのときにはガンジーも、中国にどう対処すべきか意見をお持ちかもしれませんね。
エリザベス・ロッシュ / シャリニ・ウマチャンドラン
ウェブサイト『livemint』2019年10月1日付からの転載