インド、アルナーチャル・プラデーシュ州タワン
今朝早く、ダライ・ラマ法王はイガ・チュンジンの法話会場に到着され、観音菩薩の灌頂に先立って準備の儀式を開始された。
その後法王は、ジャンベイ・タシ地方立法議員のリクエストにより、他の様々な地域で進められているターラー堂やパドマサンヴァバ像などの建立プロジェクトに関する書類にサインをされてから、次のようにお話を始められた。
「仏陀はご自分の経験を元に、すべての現象は相互依存によって成り立っている、という縁起の見解を説かれました。私たちはひとりの良い人間になろうとするだけでなく、仏陀の良き弟子であるように努めなければなりません」
法王は、二つの極端論を離れた縁起の見解を、ナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論偈』の開経偈を引用して示された。
そして次のように続けられた。
「私たちはいつも、“仏陀・仏法・僧伽の三宝に帰依します”と唱えていますが、これは何を意味するのでしょうか?仏陀は2600年前に現れた、単なる歴史上の人物というわけではありません。仏陀が特別な存在であるのは、そのお心に仏法という宝が育まれていたことによります。それは、仏陀ご自身が修行を積まれた結果として道諦(苦しみの止滅に至る修行道が存在するという真理)と滅諦(苦しみの止滅が存在するという真理)を達成され、それを仏法としてこの世に説き示されたことを意味しています」
「先ほど引用した『根本中論偈』の開経偈に説かれていたように、仏陀は精進の末、ご自身で、八つの極端を離れた八不(不滅不生・不断不常・不来不出・不異不一)という現象のありようを観じられました。そして現象の真のありようを理解することによって心の汚れを拭い去り、苦しみが完全に止滅した涅槃の境地に至られたのです。このような現象の真のありようについての洞察は、“独立して存在する客観的実在はない”という量子力学の主張と一致しています。仏陀は滅諦と道諦の境地を達成されたが故に、仏陀ご自身が最勝なる僧伽と呼ばれる資格を有しておられたのです」
「三宝について説明すると、仏陀とは導師のことであり、仏法とは実際の帰依の対象(帰依処)です。そして僧伽とは、修行の道において私たちを助け、支えてくれる出家者たちのことです。仏陀が帰依処ではなく導師と呼ばれるのは、仏陀が教えによって道を示された師であったからでした。仏陀は、ご自身の手で私たちの不徳を洗い流したり、苦しみを取り除いたり、あるいはご自身の悟りを私たちの手に与えるのではなく、私たちを解脱の境地に導く為に真理を説かれました。ですから私たちも、道諦と滅諦を達成する為に仏陀の教えを理解し、実践しなければなりません。仏法を理解するためには空を悟らなくてはならず、その為には縁起を理解する必要があります」
千手千眼観音菩薩の灌頂授与に移る前に、法王は『グル・ヨーガ(上師供養)』のテキストの口頭伝授を行なわれ、灌頂についての説明をされた。この観音菩薩の灌頂は所作タントラに属し、蓮華部の系譜である。
その後法王は、『37の菩薩の実践』のテキストを駆け足で読まれ、次のように説明された。
「仏法の実践とは、自らの心によき変容をもたらす努力をし、その結果として仏陀のお心を成就するということです。私たちには、本来的に清浄で対象を知ることができるという心の本質が備わっていて、それが仏性と言われるものです。しかし私たちは、心が鎮められていない為に過失を犯してしまうのであり、私たちの清らかな仏性は、今は覆い隠されています。苦しみの根本原因は無知にありますが、無知とは、ただ物事を知らないということではなく、現実をありのままに捉えず、歪んだ捉え方をしているということです。現実を正しく認識できるようになれば、無知は滅されていきます。それは、遠くから見て人がいると思って近づいてみると、実際には、それがかかしや石塔であったことがわかるようなものです」
「このテキストには、“導師を(自分自身の身体よりも)大切にするべきである”と説かれていますが、それは、導師が持つ優れた徳性を讃え、敬意を払うべきであるという意味です。私は、カムのある地方では、ラマが連れている馬の数を見てそのラマがどれだけ偉いかを判断する、と聞いたことがありますが、それは無知のなせる業です。また、同じくある人がカム地方の僧院長を訪ねたところ、その僧院長は留守で、老人を脅かすために村に出かけていると言われた、という話があったことを思い出します。しかし仏教は、悪い事をすると地獄に堕ちると言って人を脅すためのものではなく、解脱と一切智の境地に至る為の教えです。仏法を学ぶことにより、その教えが正しいことを確信し、教えから示唆を得て、修行することができる人間という恵まれた生を得たのだからこの貴重な機会を逃すまい、と思って教えを実践するべきなのです」
それから法王は、灌頂の授与に移られ、その儀軌の中で在家信者戒を授けられた。そして、戒律を授ける為に必要な条件は、この場に男性と女性の出家者、男性と女性の在家信者という4種類の人々が揃っていることであると説明されて、それが満たされていることを告げられた。また、チベット仏教には比丘尼戒(女性の完全な出家者の戒)の系譜は存在していないが、沙弥尼(十戒を授かった女性の見習い出家者)と、尼僧の仏教博士は存在する、と述べられた。
灌頂授与の儀式を終えられ、イガ・チュンジンの法話会場を後にされた法王は、ウゲンリン僧院に車で移動された。ウゲンリンは、ダライ・ラマ6世ギャルワ・ツァンヤン・ギャツォご生誕の地である。法王はウゲンリン僧院で短い供養法要を執り行なわれ、その後、他の来賓たちと共に昼食を取られた。昼食後、法王はドルジェ・カンドゥ記念博物館に車で向かわれたが、その道中で、マンジュシュリ学校の子供たちや職員たちと挨拶を交わされた。
ドルジェ・カンドゥ記念博物館とチャンチュプ仏塔は、前アルナーチャル・プラデーシュ州首相であり、法王のご友人であった故ドルジェ・カンドゥ氏の業績を讃えるために造られたものであり、法王はその落慶に際し、カンドゥ氏の息子で現首相のペマ・カンドゥ氏に招待されたのである。法王は、革新的で設備の整ったこの博物館の落慶供養が執り行われたことを記した記念銘板の序幕を行われたあと、館内を足早に回られた。法王は、特にドルジェ・カンドゥ氏の生涯を物語る資料と、法王が1959年にタワンの地に辿り着いて亡命された時の記録の展示に興味を示された。また法王は、この亡き友人に対する称賛の言葉を自ら書き記され、リクエストに応じて壁の写真に手形を残された。そして庭で植樹を行われた。
その後、法王は再びタワン僧院に戻られた。タワン僧院の新僧院長は、法王に、本堂に集まった僧侶たちに対するアドバイスのスピーチをお願いした。新僧院長は、法王がおっしゃったことを実現しようと自分なりに精いっぱい努力して来たこと、また歴代僧院長が教育の向上を目指して積み上げて来た実績を継承しようと努めて来たことを語った。そして今、約400人の僧侶が僧院に在籍し、100人以上の僧侶が別の場所で勉強していることを報告した。
法王は、チベット仏教の伝統は、ナーラーンダー僧院の僧院長を務めたシャーンタラクシタ(寂護)によって確立されたが、今やチベットでは思うように仏教を勉強し、修行する自由がないことを皆に想起させられた。法王が仏教博士号取得のための試験を受けられた時、デプン僧院には1万人、セラ寺には数千人の僧侶が在籍していたが、最近のデプン僧院にはわずかに40名の僧侶がいるばかりである。法王は、ヒマラヤ地方で、タワン僧院にあるような自由を享受できることがいかに貴重であるかを強調され、この機会を何としても有効に使うようにと僧侶たちを鼓舞された。
法王は、僧院の日課について質問され、朝の読経が4時か5時に始まることを告げられると、「幼い僧侶たちにはもっと寝る時間が必要でしょう」とアドバイスされた。そして、僧院・尼僧院においては良き徳性を保つことが大切であるが、よき徳性とは建物の大きさではなく、中で行われている教育と実践について言うものだ、と諭された。
タワン僧院は2つの尼僧院を運営していると説明された法王は、昨年女性の仏教博士たちが誕生したことに触れられて、尼僧たちに対して他のレベルの学位授与も可能にするべきではないかと提案された。例えば、般若学と中観学を修めた尼僧には、ラプジャムパ(よく学問を修めた者の意味)の学位を授与することも考えられるのではないかと示唆され、尼僧に対する励ましの言葉を述べられた。
明日、法王は再びイガ・チュンジンに戻ってリグジン・ドゥンドゥプ(パドマサンバヴァの成就法)の灌頂を授与され、午後にはカラワンポ会議場で一般講演を行われる予定である。