世界平和への人類のアプローチ

朝に目覚めてラジオを聞き、新聞を読むならば、暴力、犯罪、戦争、災害といった悲しいニュースに必ず接する毎日です。どこかで起こる何か恐ろしい出来事の報道がない日など一日も思い起こせません。今日のように近代化された時代であろうとも、人々の尊い命が安全であるといえないことは、明らかです。過去のいかなる時代といえども、今日の私たちほど、多くの悲しいニュースに接した経験はないでしょう。恐怖と緊張の持続的な自覚は、敏感で同情的な人々に現代社会の発展に対する深刻な疑問を抱かしめるに違いありません。

非常に深刻な問題ほど産業先進社会から発生していることは、皮肉なことです。科学技術は多くの分野で驚くべき成果を生み出してきましたが、人類の根本的な問題は依然として残されています。識字率はいまだかつてないほど向上しましたが、世界中の教育は善よりもむしろ精神的な不安、不満を育ててきたかのようです。私たちの世界の物質的進歩と技術面での向上について疑問をさしはさむ余地は皆無です。しかしそれでも、私たちはいまだに平和と幸福をもたらすことが出来ないし、不幸も克服しきれていません。

とりあえずいえることは、「私たちの世界の進歩、発展の裏に何か重大な誤りが隠されており、もしその点を時々チェックしなければ人類の未来にとって危険きわまりない禍根を残すに違いない」ということです。私は科学や技術を全面的に否定しているのではありません。科学技術は、全人類が恩恵に浴した成果、即ち物質的な快適さと幸福、私たちが住む世界のより正確な理解といった事柄に貢献するところです。しかし、私たちがもし科学技術に過大な期待を寄せるなら、人類の知識や分別に備わっている誠実さや利他への志向性を見失ってしまう恐れがあります。

科学と技術…これらは確かにはかりしれない物質的快適さを創造し得るものです。しかし、世界の文明の形成に中心的な役割を果してきた長年に渡る精神的及び人道的な諸価値に取って代わることは不可能です。科学技術による未曾有の物質的利益を否定し去ることなど誰にもできません。けれども、私たち人類の根本的な問題は依然として残っています。私たちは相も変わらず、苦悩、恐怖、緊張に、今日なお直面しています。従って、一方における物質的発展と、他方における精神的及び人間的価値の発展という、この両者間の均衡を図ることこそ、真に論理的な対処の仕方です。この大きな調整をなし遂げるために、私たちは自らの人道的な価値を復活させなければなりません。

今日の世界的な道徳の危機…この点について、私が関心を抱いているということに対し、多くの人たちは賛同してくれるものと思います。また、私たちの社会をより慈悲深い正義に満ちた平等なものとして行く手助けをしようと私があらゆる人道主義者や宗教実践者に呼びかけたことも、多くの人たちが応じてくれるであろうことは間違いないと思います。私は、仏教徒として、あるいはチベット人として、これらのことを語っているのではありません。また、国際政治の専門家として語っているのでもありません。私は、単なる一人の人間として、人道的価値の一支持者として語っているのです。この人道的価値こそひとり大乗仏教のみならず、全ての偉大な世界宗教の根本なのです。このような立場から、私は次のような諸点に関して、自らの見解を述べてみたいと思います。

  1. 普遍的人道主義は、地球規模の問題を解決する鍵である
  2. 慈悲が、世界平和の柱である
  3. 世界のあらゆる宗教は、イデオロギーにかかわらず、総じて人道主義であるゆえ、世界平和のために貢献するものである
  4. 人類のために貢献する協力体制の構築に、各個人は共同責任を負っている


人々の考え方を変えて、人類の諸問題に解決を


立ち向かう必要があります。しかし他のものは、考え違いに起因して私たち自身の作り出したものだから修正が可能です。例えば、あらゆる人々を単一の人類家族として結び付けている基本となる人間性を失い、互いにつまらぬ目的のために争うようなケースがあります。政治的、あるいは宗教的なイデオロギーの衝突は、典型的な例でしょう。世界中の様々に異なった宗教、イデオロギー、政治体制というものは、人間の幸福を実現するためにあるということを肝に銘じておくべきです。私たちは、この根本的な目的を見失ってはなりません。その根本的な目的を逸脱し、つまらぬ目的にこだわっていけません。そして、物質とイデオロギーに優越する人間性を常に堅持してゆかなければなりません。

人類はいうまでもなく、この地球上の全生物が直面している最大級の危機は、核破壊の恐怖です。このことについては、私が多くを語る必要もないでしょう。私はただ、文字通り世界の命運をその手中に握っている核戦力の司令権者の全て、このような自国の指導者たちに影響を及ぼし得る立場にある多くの人々へ、次のことを訴えたい。すなわち、正気に立ち帰り、あらゆる核兵器を分解し廃棄する作業を取りかかるべきだと。ひとたびか核戦争が勃発したなら、もはやいかなる勝者も存在しないことを私たちはよく知っています。なぜなら、そこには生存者がいないからです。このように非人間的で無残な破滅を予測するのは、何と恐ろしいことでしょうか。
私たちが、自らの破滅の原因を知り、それを取り除く時期と手段も知っているならば、まさにその原因を取り除くことこそ、論理的な帰結ではないでしょうか。私たちは、原因を知らぬがゆえに、また知っていてもそれを除去する手段を持たないために、しばしば自己の問題を克服できないことがあります。しかし、核の恐怖の問題は該当しません。
 
人間のようにより進化した種に属するものも、また動物のようにより単純な種に属するものも、生き物は全て、平和、快適さ、安全を、何よりもまず求めるものです。生命は、いかなる人間にとっても尊いものであるのと同様、無言の動物たちにとっても尊いものです。ごく小さい虫でさえも、自らの生命を脅かす危険から逃れようと懸命に努力します。私たち一人一人が生きることを欲し、死ぬことを欲さないように、宇宙の他の生き物たちも全く同じです。ただそういう結果をもたらす能力についてのみ違いが見出せるのです。

簡単にいえば、幸福と苦痛には、それぞれの精神的なものと肉体的なものという二種類が存在します。この二種類のうちでは、精神的なものの方がより強烈であることは確かでしょう。ゆえに私は、苦痛に耐え、より永続的な幸福の状態に至るため、心の訓練を強調したいのです。もっと一般的で具体的な幸福の概念もあります。すなわち、内なる平和、経済発展、そして何といっても世界平和…この三者の組み合わせです。このような目標を達成するためには、「普遍的責任」の感覚を啓発することが不可欠であると痛感しています。「普遍的責任」とは、信条、人種、性別、国籍の如何に左右されることなく、あらゆる相手に対しても深く関わることです。

この「普遍的責任」という考えの背後にある前提は単純明快であり、一般的な言い方をすれば、「全ての他の欲するところは、自らの欲するところと何ら変わらない」ということです。あらゆる生き物は、皆幸福を望み、苦痛を望みません。知性を備えた人間の私たちがこの点を認めないならば、地球上には苦痛に満ちていくでしょう。もし私たちが生命に対して自己中心的な接し方を続け、その他のものに対して自分の利益のために利用するような振舞いを改めないならば、たとえ一時的な利益を得ることはあっても、長い目で見れば個人的な利益さえも得ることができないどころか、まして世界平和の実現など論外となってしまうことは必至です。

自らの幸福を求めて人間は様々な手段を用いてきました。しかしそれらの多くは、ときに残酷で冷酷でした。人間としての立場にふさわしくない行為に訴え、自らの利己的な欲のために他の人間や生き物たちへ危害を加えてきました。このように近視眼的な振舞いは、他者に対するのと同様、自分自身に対しても危害をもたらすことになります。人間として生まれるということは、それ自体が極めて稀な出来事です。その貴重な機会をできるだけ有効かつ上手に利用することこそ賢明な道です。一人の人、または一つの集団の幸福と栄光が他の犠牲によって求められるということのないよう、私たちはあらゆる生命の営みに正しく心を配らなければなりません。
 
そこで、全世界的な問題への新しいアプローチが必要になってきます。急速な技術革新と貿易の発展によりこの世界はどんどん小さくなり、また相互依存的になっています。同時に、国家の枠を越えた関係が急速に拡大しつつあります。事実、今日の私たちは相互に依存しあう度合いが非常に大きいです。昔であれば、ほとんどの問題は家族の範囲を越えることが無かったので、その対処も家族レベルで行われていました。しかし現在では事情も一変しています。私たちは極めて相互依存的であり、非常に密接な関係を結んでいます。ですから、普遍的な責任感、普遍的な兄弟姉妹の感情、「私たちは一つの大きな『人類』家族の一員に実際になっている」という理解と信念が無ければ、私たちが自らの存在そのものへの脅威を克服しようとしても、そして平和と幸福だけを得ようと望んでも、それは無理というものです。

一国の問題は、もはやその一国だけでは満足に解決しきれません。非常に多くの事柄が、他国の利害、対応、協力に関わってくるからです。そういうわけで、世界的な諸問題に対する万人共通のアプローチこそ世界平和に至る唯一の堅固な足がかりとなるでしょう。それは一体どういう意味でしょうか。私たちは、前述のように、「全ての生き物は、皆幸福を望み、苦痛を望まない」という認識を出発点としてします。同じ人類ファミリーのメンバーである周囲にいる他者の気持ちと願望を顧みず、ただひたすら自分だけの幸福を追い求めることは、道徳的に間違っているし、実際問題としても愚行です。もっと賢明な人ならば、自分自身の幸福を追求する際に、他人のことを考慮するでしょう。このように考えを進めていって得られる結果を、私は「賢明な自己利益」と呼んでいます。そして「歩み寄った自己利益」、さらに一層望ましい「相互利益」へと発展していくことを望んでいます。

国家間の相互依存度が高まる中、一層思いやりに満ちた協力関係の生ずることを期待しますが、人々が他人の気持ちや幸福に無関心である限り、真の協力の精神に到達することは困難です。人々が主に貪欲と嫉妬に動機付けられて行動するなら、調和を保って暮らすことなど無理な相談です。これまでの自己中心的なやり方に起因する政治的な諸問題を全て解決することはできないとしても、精神的なアプローチにより、長期的には、私たちが現在直面している問題のまさにその根源を克服することができるでしょう。
 
逆に、もし人類が一時的な便宜だけを考えて問題を対処し続けれるならば、未来の世代は極度な困難に立ち向かわざるを得なくなるでしょう。地球上の人口は増加し続け、私たちの資源は急速に枯渇しています。大量の森林伐採が、気候、土壌、地球的規模の生態系に全体としてどのような悪影響を与えるのか、正確には誰もわかりません。包括的な人類家族のことを考えず、自己の短期的な利益ばかりに熱中しているから、私たちは問題を抱え込んでしまうのです。皆、地球のこと、地球全体の普遍的生命が被る長期的影響について思いをめぐらすことをしません。現世代の私たちが、今このようなことを考えなければ、未来の世代には対処のしようもないことでしょう。


慈悲は世界平和の柱

仏教心理学によれば、私たちが感じる苦しみのほとんどは、永続的にある実体と思い違いをしている強烈な欲望と執着に起因していることになります。欲望と執着の対象となるものを追求するに際し、その有用な道具として攻撃や競争も含まれます。攻撃や競争の精神過程は、一つの明らかな効果として敵愾心を煽りたてながら、容易に行動へとエスカレートします。このようなプロセスは、太古の昔から、人間の心の中で繰り返されてきました。しかし、現代的な諸条件のもとでは、それを実行に移すことから生じる結果も比較にならぬほどの重大性を帯びてきました。 無知、貪欲、攻撃性などの「毒」をコントロールし調整するために私たちは何をし得るだろうか。世界中のあらゆる紛争の背後には、大抵このような毒の影がちらついているのですが…。

大乗仏教の伝統の中で育った者の一人として、私は愛と慈悲こそが世界平和の骨組みであると感じています。私のいう慈悲とは、いかなるものであるかをまず定義しておきましょう。あなたが非常に貧しい人へ憐れみと同情の念を抱いたとしましょう。それは相手の貧しさゆえに湧き起こった思いやりです。そのそきのあなたの同情心は利他的な考えに基づいています。一方、あなたの妻、夫、子供、あるいは親しい友人に対する愛は、通常の場合、執着に基づいたものです。あなたの執着に変化が生じたとき、あなたの愛情も変化します。あるいは、消えてしまうかもしれません。これは本当の愛ではありません。真の愛は、執着に基づくものではなく、利他主義に基づくものです。利他に基づく慈悲は、生き物に苦しみが存在する限り、その苦しみに対する慈悲深い対応を決してやめることはありません。

私たちは、このような利他に基づく慈悲心を自分自身の中で育んでゆくよう努力しなければなりません。そしてそれを有限なものから無限なものへと発展させる必要があります。感覚を有する全ての生き物に対する分け隔てのない自発的で無限の慈悲は、友人や家族に対して抱く無知、欲望、執着が混り合わさった普通の愛とは明らかにに異なったものです。私たちが持つべき愛とは、自分に対して危害を加えた者、つまり敵にさえも抱くことのできる広大な愛なのです。

慈悲の論理的根拠は、「私たちの誰もが苦痛を避け幸福を得たいと望んでいる」ということに求められます。このことは、逆に、幸福に対する万人共通の欲求を規定するところの「我」という確実な感覚に基づいています。実際、生きとし生けるもの全て同じような欲求を持って生まれてきます。そしてそれを満たすための平等な権利を与えられるべきでしょう。私自身を数えきれぬほど多くの人々と比べた場合、私は一人であるのに対し、他者は多数であるゆえに、他者の方が「より大切である」と感じるのです。さらにチベット仏教の伝統では、「感覚を有する全ての生き物を自分自身の愛しい母親とみてその全てを愛することにより自らの感謝を示すべきだ」と教えています。というのは、仏教の考えによれば、私たちはこれまで数限りなく何回も生れ、また生まれ変わり、そして現在に至っています。その間、あらゆる生き物たちが、ある時に、また別な時に、それぞれ自分の親であったと考えられるからです。このようにして宇宙の全ての生き物は家族関係を分かち合っているのです。

宗教を信じようと信じまいと愛や慈悲の価値を高く評価しない人など誰もいません。私たちは、出生の直後から親の世話を受けてきました。晩年に至り、病気や老齢の苦痛に見舞われたとき、私たちはまたも他人の親切に頼ることになります。人生の始まりと終わりに他者の親切に頼っていながら、どうしてその中間において、私たちは他者に対して親切に振舞わないでいられましょうか。
思いやりある心、つまりあらゆる人々に対する親しみの感覚を育むには、習慣的な宗教実践とすぐ関連づけられるような信心深さをどうしても必要とするわけではありません。思いやりの心は、単に宗教を信じる人たちだけのものではありません。民族、宗教、あるいは政治上の帰属に関係なく全ての人たち、とりわけ自分自身を人類ファミリーの一員と考え大きく長い展望のもとで物事をみる人たちこそ、それを持つにふさわしいのです。私たちは強い思いやりの心を育み応用すべきです。ところが、このことをしばしば怠ってしまいます。誤った防衛意識を体験する若年期においてこそ思いやりの心の成長を促すべきなのです。
 
より長期的な展望にたち「全ての人々が、幸福を得て苦痛を避けたいと望んでいる」という事実を考え、無数の他者の存在と彼我の相対的重要性を比較するとき、私たちは自らの所有物を他者と分かちあうことに高い価値を見いだすことができます。このような見方を訓練すると偽りなき慈悲の心「他者に対する心からの愛と尊敬の念」を持つことが可能になってきます。個人的な幸福は自ら意識的に追求することをやめると、他者に対する愛と奉仕の全過程を通じ、はるかに勝る副産物として自動的に得られるものです。

精神的な成長のもう一つの結果で、毎日の生活において最も有益なものは、心の平静さが得られるということです。私たちの生活は、間断の無い流転の中にあり多くの困難が持ちこまれています。平静かつ明晰な心をもって接すれば、問題も満足に解決できます。逆に、嫌悪、利己心、嫉妬、怒りのため、心のコントロールが失われた場合、正しい判断能力もなくなってしまいます。私たちの心が盲目となったとき、それが手に負えなくなった瞬間に戦争も含めていかなる事態も発生し得ます。だから実際、慈悲と知慧を育むことは、全ての人、とりわけ国政を司る責任を負っている人たちにとって、有益なことです。彼らには、世界平和の枠組みを作りだす力と機会が与えられているからです。


世界の宗教は、世界の平和のために


これまで述べてきた原理は、世界のあらゆる宗教の倫理的な教えに準拠したものです。仏教、キリスト教、儒教、ヒンズー教、イスラム教、ジャイナ教、ユダヤ教、シーク教、道教、ゾロアスター教といった世界の主な宗教の全ては、同じような愛の理念を共有し、また精神的実践を通じて人類に利益をもたらすという同じ目標、それぞれの信者をより善き人間にするという同じ効果を持つと、私は固く信じています。全ての宗教は、心、身体、言語の働きを完全に正しくするための道徳的戒律を教えています。嘘をついたり、盗んだり、他の生命を奪ったりなどしてはならないと戒めています。人類愛に満ちた偉大なる教主たちが定めた道徳的戒律の共通した目標は、自己本位にならないということです。偉大な教主たちは、無知によって生ずる否定的行為の道から信者たちを救い、善の道へと導くように願ったのです。

あらゆる宗教は、利己主義などトラブルの根源を宿している心の野放し状態をコントロールする必要性を説いている点で一致しています。どの宗教でも平和で抑制が効いた賢明な精神状態へ至る道を説いています。全ての宗教が本質的に同じメッセージを持っていると私が考えるのはこのような意味においてです。教義の相違は、時間と環境の違いや文化的影響に起因するかもしれません。確かに、諸宗教の純粋に形而上学的な側面を考えた場合、学問的な議論には際限がありません。しかし、全ての宗教が説く共通の善行を日常生活において実践しようと努力する方が、小さな差異にこだわって議論するよりもはるかに有益なことです。

様々な病気に対してそれぞれ相応の処置があるように、多くの異なった宗教があって人々に安楽と幸福をもたらしています。あらゆる宗教は、それぞれのやり方で人々が災厄を回避し幸福を得ようとするのを助けるため努力を重ねています。なるほど、宗教上の諸真理の確実な解釈を好むのも相当の理由があってのことです。しかし、様々な宗教間の一致点を見いだそうとするのは、人間の心における一致したものを見出すことも大きな理由があるからです。各宗教は、人類の苦しみを減らし、世界の文明に貢献するため独自の方法を通して役立っています。だから、改宗ということを口にする必要はないのです。私は他の人を仏教に改宗させたり、仏教徒の主張を押し通そうなどと毛頭考えていません。仏教徒、一人の人道主義者の立場から、どうやって人類の幸福に貢献できるかということをひたすら考えているのです。

世界の宗教間の根本的な類似性を指摘したところですが、私は他の全てを犠牲にしてまで、特定の一宗教を唱道したりなどしません。また新しい世界宗教を待望したりなどもしません。世界の様々な宗教の全部が、人類の体験と世界の文明を豊かにするため必要なのです。人間の心は、その度量も性質も様々に異なっているので、平和と幸福へのアプローチもまた異なった方法が必要になってきます。それはちょうど、食べ物と同じです。ある人々は、キリスト教に強く心をひかれるでしょう。別な人々は、仏教に創造主が存在せず全てが自己の行いにかかっているという点で仏教を好んでいます。他の宗教についても、また同じようなことが言えます。このように考えてみれば、論点は明らかです。人類は、生きるべき道として、多様な精神性上の必要性から、また個々の人間が民族として受け継いだ伝統に適応するため、世界のあらゆる宗教を必要としているのです。

各宗教間のより良い理解のため、世界各地で様々な努力がなされています。私がそれを歓迎するのは、前述の見地に基づいてのことです。このような宗教間の理解を目指す努力こそ、今まさに緊急の課題として求められています。もし全ての宗教が人間性の向上をその主要な関心事とするならば、皆揃って調和を保ちつつ世界平和のために尽力することができます。信仰間の相互理解は、全ての宗教がともに働くために必要な一致点を見出してくれます。確かにこれは大事な一歩ですが、それほど速やかにかつ容易に実現できるものではないことを肝に銘じておかなければなりません。私たちは多様な信仰の間に存在する教義上の差異を隠すことはできないし、既存の宗教を新しい普遍的信仰に取り替えるよう望むこともできません。それぞれの宗教には取り組むべき独自の目標があるし、それぞれのやり方で特定のグループの人々にその生活面も含めて浸透しています。そして世界は、それらの宗教全てを必要としているのです。

世界平和に関わる宗教実践者は、二つの主要な課題に直面しています。第一に、全宗教間で実現可能レベルの一致点を築きあげるため多様な信仰間でより良き相互理解を促進しなければなりません。これは、他人の信仰をそれぞれ尊重することによって、また人類の幸福に対する私たちの共通な関心を強調することによって部分的には達成されます。第ニに私たちは、基本的な精神上の価値に関して、実行可能な合意を形成しなければなりません。それは、全ての人の心情に触れ人類全体の幸福を増進するものでなければなりません。その意味するところは、私たちが世界の全宗教に共通の要素、つまり人道主義的理想を強調しなければならないということです。この二つのステップを踏むことにより、私たちは世界平和の実現に必要な精神的状況を作り、個人または共同で行動することが可能となります。
 
私たちの実践している信仰は多種多様ですが、自らのものと異なった宗教も、善なる心、つまり他者に対する愛と尊敬、真の共同体の感覚を成長させる本質的な手段であると認めることができれば、世界平和のため共に手を携えて活動することも可能となります。最も大切なことは宗教の目的をよくみることであり、単なる知識主義に陥りがちな細かい理論や抽象論にとらわれることではありません。もし私たちが、実際にそれぞれの宗教の非常に細かい相違点を問題視しなければ、世界の主な宗教の全てが世界平和への貢献と人類の利益のため共に力を尽くすことができるでしょう。

全世界規模の近代化がもたらした俗化現象の進展にもかかわらず、また世界の一部における精神的価値を破壊しようとする体系的な企てにもかかわらず、人類の大多数は何らかの宗教を信じ続けています。宗教に対する不屈の信仰は、非宗教的な政治体制のもとでさえしっかりと貫かれてきました。このように宗教の持つ力は確実に存在しています。この精神的なエネルギーと力は、世界平和に必要な精神的状態をもたらすという明確な目的をもって用いることができます。この点で、全世界の宗教指導者と人道主義者にはやらなければならない特別な役割が課せられています。

私たちが世界平和を達成できるか否かは、私たちの目標へ向けての努力にかかっており、他に選択の余地はありません。もし私たちの心が怒りによって支配されれば、人間の知識の最高の部分である智慧と、さらに善悪を決する能力とを失ってしまうでしょう。今日の世界において、怒りは最も深刻な問題の一つに数えられます。


各自の力を合わせ協力体制の構築

中東、東南アジア、南北問題など現代の紛争においても、怒りは決して少なからぬ役割を演じています。このような紛争は、お互いどうし、人間としての本質を理解しようとする努力を欠いているところにその原因があります。これに対処する方法は、強大な軍事力の開発や行使でも軍備拡張競争でもありません。純粋に政治的なものでも、純粋に技術的なものでもありません。根本的に紛争を防止するための条件は、精神的なものです。それは、人類としての立場を共有しているという事実を敏感に理解しなければならないという意味において精神的なのです。憎悪や闘争を通じて幸福を獲得することは、たとえ戦闘の勝者であってもできないことです。暴力は、常に悲惨な状況をうみだすからその本質において非生産的です。いまや世界の指導者たちは、民族、文化、イデオロギーの違いを乗り越え、互いに人類としての共通の立場を理解する眼を養うべき時なのです。そうしてこそ初めて、個人、共同社会、国家、そして世界に、全体として利益を与えることができるのです。

近年における世界緊張の大部分は、第二次世界大戦後継続してきた東側ブロック対西側ブロックの冷戦から生じたものと思われます。この東西両ブロックは、互いに相手を根本から非友好的な眼差しをもって見つめ描こうとする傾向にあります。この間断なき非合理的な闘争は、同じ人間として相互に愛情と尊敬を抱けないことに由来するものです。東側ブロックの人々は、西側ブロックに対する憎しみを減らすべきです。西側ブロックも東側と同じ人間、つまり男、女、子供で構成されているのです。同様に、西側ブロックの人々も、東側ブロックに対する憎しみを減らすべきです。このように相互間の憎悪の軽減を図るため、両ブロックの指導者たちは強力な役割を演じるべきです。第一に、指導者たちは、自身、及び他者における人間としての本質を理解しなければなりません。この基本的な理解を欠いては、構造的な憎悪を軽減することなど全く不可能なことです。

例えば、米ソの指導者が無人島の真ん中で突然会見したとします。そのとき二人の指導者は、間違いなくお互い同じ人間どうしとして自然に接するでしょう。ところがアメリカの大統領かソ連の書記長だと確認された瞬間、相互の疑惑と誤解の壁がこの二人を分断してしまいます。ですから、非公式の議事日程のない広範な会合の形で行われる多くの人間的な接触こそ、相互理解の進展に寄与するだろうと思います。お互いに人間どうしとして関係を結ぶことを学ぶであろうし、またそのことにより同じ人間どうしという基本理解に根ざして国際問題に取り組むことも可能となるでしょう。相互不信と憎悪の雰囲気の中では、どんな当事者でも実りある交渉を持つことはできません。特に、敵対した歴史を背負った両当事者間であればなおさらのことです。
 
私は、世界の指導者たちが仕事は一切抜きにして、ただひたすら相互に人間として知り合うため、年に1回程度、美しい場所で会合することを提案します。そうすれば、後に相互間あるいは世界全体の問題を話し合うために会合することも支障なくできるでしょう。このような雰囲気、それぞれの人間としての本質に対する相互理解と尊敬のもとで世界の指導者たちが会談のテーブルに着くという、このような私の希望と意を同じくする人たちも数多くいるに違いないと思います。

全世界規模で人間どうしの接触を促進するため、海外旅行を一層奨励することに注目してみたいと思います。またマスメディアは、特に民主社会において、人間性の根源的な同一性を反映するような人々の関心事を広範に報道することを通じ、世界平和にかなりの貢献することができます。国際舞台では、一握りの強大国の出現により、国際機関の人道的役割が側面に押しやられ無視されつつあります。こうした事態が是正され、あらゆる国際機関、特に国際連合が人類全体の最大利益を保証し、国際理解の進展を図るうえで一層活発で効果的な役割を演じてくれるよう、私は希望しています。もしごく少数の強力な加盟国だけが自らの一方的利益のため国連のような国際機関を不公正に利用し続けるなら、それは実に悲しむべき事態です。国連が目指すべきは、世界平和を実現するための道具となることです。国連は、弱小な被抑圧国にとって、またそれゆえに地球全体にとってまさしく唯一の希望の源です。だからこそ、この国際機関は全ての人々から尊重されなければならないのです。

あらゆる国家が従来にも増してなお一層、経済的に相互依存状態となっているのですから、人間相互の理解も国境を越え国際社会全体を包むものでなければなりません。脅迫や実力行使ではなく、心からの理解によって得られた純粋で力強い雰囲気を作りだすことができなければ、世界的な問題は増加の一途を辿ることになるでしょう。貧困な諸国の国民たちは、当然受けるべき幸福への望みが否定されてしまうならば、富裕な国々に対して不満を抱き問題を提起するのは当然です。望ましくない社会的、政治的、文化的形態が押しつけられたままの状態では世界平和の達成もおぼつきません。しかし本音で人々が満足できる状態を実現できれば、平和は確実に到来するでしょう。

それぞれの国家の中で、個人には幸福を追求する権利が与えられるべきです。そして国際間では、最小国の繁栄であっても平等の関心が払われなければなりません。私は、「一つの制度が他のものより優れているから、誰でもそれを採用すべきである」などというつもりはありません。むしろ逆に、政治システムとイデオロギーの多様性は望ましいことであり、その方が人類共同体の中における多様な傾向にもそれぞれ合致できるのです。この多様性こそが人類の幸福に対するあくなき追求を進めることができます。そういうわけで、それぞれの共同体は自己決定の原則に基づいて自らの政治的、社会的制度を自由に構築できなければなりません。

正義、調和、平和の達成は、多くの要因から成り立っています。私たちは、短期間ではなく長期的な見通しに基づいた人類の利益という見地から、それらの要因を考慮しなければなりません。私たちの目の前にある問題の重大性を十分理解しています。しかしその解決法として、私が提案した全人類共通の人間性に基づいたものの他に方法が見出せません。各国は他国の繁栄に無関心ではいられなくなっていますが、人類愛に対する信仰がその大きな理由というわけではありません。むしろ、全当事者相互に関わる長期的な利害のためです。このような新しい現実は、EC、ASEANなどの地域的または大陸規模の経済機構の出現により如実に示されています。私はこのような国家の枠を越えた機構がもっと多く、特に経済的な発展が遅れ地域的な安定を欠いていると思われる方面に形成されることを希望しています。

現状では、人間に対する理解と普遍的な責任感の必要性は日増しに強まっています。それを満たすためには善良にして思いやりのある心を育てなければなりません。この心を欠いては普遍的な幸福も永続的な世界平和も実現されることなど不可能です。机上の空論で平和を得られるはずがありません。普遍的責任、普遍的兄弟姉妹といった概念を唱えながら、実際のところ、人類は国民社会という形態の区分化された実態に組織されています。だから私は、現実的な感覚として、世界平和という家を建築するブロックの役割を担うべきは、そのような国民社会であると感じています。

より公正で平等な社会を作りだすための試みは、過去においてもなされてきました。いくつかの組織体が高尚な憲章を掲げ、反社会的な勢力と闘うために設立されました。しかし残念ながら、このような理想は利己主義によって裏切られてきました。今日、私たちは倫理と崇高な原理がいかに私利私欲の影で曇らされてきたかをいまだかつてないほど数多く目撃しています。特に、政治の分野において、それは目に余るほどです。政治からは一切手を引くよう警告する思想学派もあるほど、政治とは不道徳の同義語に成り下がってしまいました。倫理を欠いた政治は人々の幸福を増進せず、道徳のない生活は人間を野獣のレベルまで引き下げてしまいます。しかし政治は、本質的には「汚い」ものではありません。そうではなく、私たちの政治文化の道具が人類の幸福の増進を目指している高い理想と崇高な概念を歪めてしまったのです。当然、精神的な世界の人々は、宗教の指導者と政治との「癒着」に関心を示しますが、それは政治による宗教の汚染を彼らが恐れているからにほかなりません。
私は、「宗教や道徳が政治に立ち入る余地はない」とか「宗教人は世捨て人として隠遁すべきだ」といった安易な考えには疑問を抱いています。宗教に対するこのような見方は極めて一方的で、個人と社会との関係、及び私たちの生活における宗教の役割に関し適切な見通しを欠いています。倫理は、宗教実践者同様、政治家にとっても決定的に重要なことです。政治家、及び統治者が道徳原理を忘れると危険な結果を招来することになります。神を信じているかカルマ(業)を信じているかにかかわらず、倫理はあらゆる宗教の基本です。

道徳心、慈悲、礼節、知恵など人間としての徳こそが、あらゆる文明の基礎となるものです。このような徳は、より一層人間的な世界を実現するために相応な社会環境のもとで体系的な道徳教育を通じ育成、維持されなければなりません。このような人間的世界を創造するのに必要とされる徳目は、子供の頃から正しく教え込まなければなりません。この変革の実現を次世代に期待しなければなりません。現在の世代が、基本的な人間の価値の刷新を試みなければなりません。もし何か希望があるとすれば、それは未来の世代においてのことです。しかし、それも私たちが現在の教育システムを世界規模で大改革することに着手すればこその話です。普遍的人道の価値に献身し実践する局面において、私たちは大変革を必要としているのです。

道徳の退廃をくい止めるためには、ただ声を大にして叫べばよいというものではありません。私たちは、もっと他に何かをやらなければなりません。各国政府はこのような「宗教的」責任を負うものではないから、人道主義のリーダー、宗教界の指導者たちが市民、社会、文化、教育、宗教の組織を強化し、人間的、精神的価値の復活を図らなければなりません。さらに、私たちは、こうした目標を達成するための新組織も必要に応じて作らなければなりません。そのようにしてこそ初めて世界平和のためのより安定した基盤の確立に希望が持てるのです。

私たちは、社会生活を通じて同胞の市民たちの苦しみを分かち合わなければなりません。そして、愛する人々のみならず、敵に対してさえも、慈悲と寛容を実践しなければなりません。これは、私たちの道義心の強さを測る試金石です。私たちは、自らの実践をもって手本を示さなければなりません。単に言葉だけで宗教の価値を他人に納得させることなど望べないからです。他人に高潔さや犠牲的行為を求めるならば、私たちもそれと同等の高い規範を自らに課して行動しなければなりません。あらゆる宗教の根本的な目的は、人類に奉仕し、人類のために貢献することです。単に他人を帰依させるだけではなく、あらゆる生き物にいつも幸福を平和をもたらすことこそ宗教にとって最も重要である理由です。

宗教には国境がありません。宗教は、有益と認める人々の誰もが利用できるし、また利用されるべきものです。宗教を求める各個人にとって大事なことは、自分自身に最も適する宗教を選ぶということです。しかし、ある特定の宗教を信奉することは、他の宗教、あるいは自分が属している共同社会に対する拒絶を意味するものではありません。宗教を信奉する人たちは、自分自身を社会から切り離すべきではありません。自らの属する共同社会で、他のメンバーと調和を保って生活し続ける方がよいのです。実は、この点が重要です。なぜなら、自分自身の共同社会から逃避してしまうと、他人に利益を与えることもできなくなってしまうからです。本当は、他人のためになることこそ宗教の根本的な目的であるにも関わらず…。
この点に関し、心に留めておかなければならない大切なことが二つあります。それは、自分自身を観察すること、そして自分自身を修正することです。私たちは自らを注意深く観察しながら、他人に対する姿勢も常にチェックしてゆかなければなりません。そして、もし自分が間違っていることに気づいた場合は、すぐにそれを正さなければなりません。

最後に、物質的な進歩について再び言及してみましょう。多くの欧米人が、物質的進歩に対し異議を唱えているのを私はよく耳にします。本来ならば、それは西洋世界が大いに誇りとするものです。人間優先の原則が貫かれているならば、物質的進歩それ自体に悪いことは何もありません。人類が抱えている様々な問題をあらゆる次元で解決するためには、経済的な発展と精神的な成長を結びつけ調和させなければならないというのが、私の強く信ずるところです。

しかし、私たちはその限界を知らなければなりません。科学や技術といった物質に関する知識は、人類の福祉に大きく貢献してきました。しかし、それで永続的な幸福を作りだすことは不可能です。例えば、技術進歩がおそらく他のどの国よりも進んでいるであろう米国には、依然として多くの精神的苦痛が存在しています。それは物質的な知識をもってしても、ある種の幸福、つまり物理的条件に依存している幸福しかもたらすことができないからにほかなりません。物質的な知識では、外界の要素に左右されない内面の成長からの幸福を得ることなど望むことなどできません。

人間的な価値を復活し永続的な幸福を達成するため、世界中の全ての民族に共通する人道的遺産に目を向ける必要があります。私たちの全てをこの地球上の一家族として結びつけてくれる人間的価値を忘れぬよう、この小論が備忘録として役立つように…


日頃感じていることを伝えるため、
私はこの小論を書きました。 
外国の人々と会うときでも、
いつも私は同じ思いを抱いています。 
「人類家族の一員と会っているのだ」と。
生きとし生けるもの全てに対する愛情と尊敬、
こんな思いが、深まってきます。
この自然な願いが、
世界平和に対する私のささやかな貢献となりますように。
友情と心くばりと理解を深めあえるよう、
この地球上の人類家族のため、私は祈ります。
苦しみを厭い、永遠の幸福を大切に思うそんな全ての人々へ、
これが私の心からの訴えです。

 

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